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2014年7月27日日曜日

スワミ・プレーマーナンダの教え

◎ある僧への手紙

一般の人々から援助を受けない限り、どうしてあなたが「ホーム・オブ・サービス(奉仕の家)」を運営できるだろうか? もちろん、人々に援助を求めてもよい。
だが、一人の人間の援助に完全に頼りきるのはよくない。

名誉と称賛への欲望を、主にすべて明け渡しなさい。
たとえあなたの道に多少の名誉や称賛がやってきたとしても、それがあなたを害することはないだろう。
主の信者たちは、自由な時を生きている。
英雄のように振る舞いたまえ。――主の御力の中で強くなりなさい。
もしいくらかの弱さが生じたら、人けのないところで主に祈りなさい。
彼は強さと正しい理解をあなたにお与えになり、彼ご自身のもとへあなたを導いてくださるだろう。

どんな仕事をやり始める前にも、主を思いなさい。そして、彼を拠り所とし、ただの道具としてそれをやるように試みるのだ。
主のみが完全な行為者であると、いつも心に留めておきなさい。主におまかせするならば、悪が生じることは決してないのだ。
わたしもまた、シュリー・ラーマクリシュナの恩寵を通じて、あなたが礼拝として、また彼を喜ばせるためだけにすべての仕事を遂行できるように、あなたを祝福する。

主の御意思のみが為される。

しかし、ごく平凡な一個人が、どのようにして彼の御意思を知り、理解することができるのだろうか?
彼を思い続けることが、人間の一つの義務なのだ。

幸福と苦しみ――すべてを彼におまかせするのだよ。
わたしたちはどんな状況のもとでも満足していなければならない。
わたしたちは彼のものであるのだから、彼がわたしたちに望まれるように、彼におまかせしなさい。

この世が利己主義に満ちているというのは、わかりきったことである。
しかしそうはいっても、人間はこの世で生き続けなければならないのだから、世間の人たちは利己主義だといつまでも考え続けることは虚しいことだ。
人は深い熟考と吟味を通してこの事実の真理を十分に理解した後で、仕事に就くべきである。

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◎利己主義

2014年7月20日日曜日

思い出して

「法の道はまことにきびしい。欲望が一つでもあると至聖にとどくことはできない。針に糸を通すのに、一つでもケバがあったらだめだ。ギーターのなかで、クリシュナ神がアルジュナにおっしゃっている――わたし(神)のところに来ようと思ったら、八大神通力の一つでも持っていてはだめだ、と。
どうしてか、わかるかね? 神通力などを持っていると、人間は必ず高慢になる。高慢、増上慢、これが神を忘れさせるのだ。超自然能力とか霊能力とか、ああいうものにとらわれていたら、迷妄から脱けることはできない。我執が深まるばかりだ」
――ラーマクリシュナ


思い出して

心の中のあのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナの笛の音が
正しく生きなさいと 歌っているよ
僕がついているからと ほほえんでるよ

花咲き乱る あのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナが美しい
孔雀の羽 揺らして 遊んでいるよ
鈴の音 響かせて 踊っているよ

心の中のあのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナが麗しい
早く思い出してと 叫んでいるよ
一緒に遊んでいた 至福の日々を

顔を上げれば あの空いっぱいに
今日もクリシュナが愛おしい
誰も憎まないでと 叫んでいるよ
すべては僕なんだよと ほほえんでるよ

耳を澄ませば あのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナの笛の音が
正しく生きなさいと 歌っているよ
僕を思い出してと ほほえんでるよ





2014年7月19日土曜日

慈しみ

有能であり、心が真っ直ぐであり、
正しく、言葉優しく、柔和であって、
思い上がらない者でなければならない。

足る事を知り、僅かな物を食べ、
雑務が少なく、生活も簡素であり、
諸々の感官が静まり、聡明であって、
昂ぶることなく、他人の家で貪らない。

他の識者の非難を受けるような、
下劣なことを、行ってはならない。
すべての、生きとし、生けるものは、
幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

どんな生物生類であれ、
弱いものも、強いものも、
長いものも、短いものでも、
微細なものも、粗大なものも、
見えるものも、見えないものも、
遠くに住む者も、近くに住む者も、
生まれたものも、生まれるものでも、
一切の生きとし生けるものに、幸あれ。

何人も、他人を欺いてはならない。
いつも、他人を軽んじてはならない。
相手を悩まそうと、怒りの想念を抱き、
苦痛を与えることを、望んではならない。

さながら、己が独り児を、
母が、命を賭けて守るよう、
一切の生きとし生けるものに、
無量の慈しみの心を起こすべし。

上に、下に、横に、障害なく、
恨むことなく、憎むこともなく、
全世界に、慈無量心を起こすべし。

立ちながらも、歩きながらも、
座りながらも、臥しながらでも、
眠らない限りは、慈無量心を持て。
これは、慈悲喜捨、梵住と呼ばれる。

邪見を捨て、戒律を守り、智慧を具え、
諸々の欲に関する、貪欲を除いたものは、
決して、再び母胎に宿ることがないだろう。

――スッタニパータ 第一章 八


鼓舞する言葉

人間に生まれるという、稀なる特典を得ても、
今生で神を悟れなければ、生まれた意味がない。
――ラーマクリシュナ・パラマハンサ
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「すべてを受け入れることが成長の印です。」
 ――ヴィヴェーカーナンダ
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「自分で自分を尊敬できないものを他人が尊敬してくれますか?
 たとえ死ぬ運命にあろうとも……
私は勇者のように、最高に気高く死にましょう!」
―インドラジット(メーガナーダ)
インドラジット―実写ドラマ・ラーマーヤナ 第88話


瞑想の徴

自分が本当に瞑想していることがわかるのは、いつか? それを知るための目安がある。

たとえば四時半に座って瞑想を始めるとする。そして瞑想に一時間を当てておくとする。そして、五時半にベルが鳴る。そのときもし、「え? こんなに早くベルを鳴らすのは誰だ? 座ってからまだ五分じゃないか」と感じたら、それは瞑想だったと言ってもよい。ところが五分間を一時間に感じたら、それは瞑想ではない、それはまだ集中していたのだ。瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。だから、突然瞑想が破られたら、あなたは、「私の身体に何が起きたのだろう?」と不思議に思うだろう。真の瞑想では、身体さえも忘れ去られる。あなたは時間と空間を超える、つまりあなたは身体を脱け出す――。”身体を脱け出す”と言っても、空中を浮遊するというような意味ではない。心が身体意識を超えるという意味である。

その点で瞑想は睡眠に似ている。睡眠中は、身体があるということがわからない。それは確かにそれに気づかないのだ。睡眠が本当に深いときには、誰かがあなたの身体を別の場所へ移動させても、そのことにすら気づかない。そして眼が醒めたとき、「私はソファで寝ていたはずだが……誰が私をベッドに運んだのだろう?」と言う。

瞑想である徴は、他にもまだある。初めのうち、身体を超えるとき、たいへん軽く感じる。またもちろん、瞑想の対象と関係したすばらしいヴィジョンを得ることもある。ときには、関係はなくとも、非常にすばらしく、高揚的なヴィジョンであることもある。またときにはヴィジョンではなく、単に美しい光であったりする――たとえば美しい月光を浴びているように思われたりするだろう。あるいは海鳴りとか、鐘の音とか、美しいフルートの音色とかいうような、音であるかもしれない。これらはすべて、出遭うかもしれないいろいろな徴である。しかし普通私はこうしたことをあまり話さないことにしている。それは、そういうことを聞くと、「そういうことが今私に起こっているんだ」というふうに想像してしまうからである。それは起こすのではなく、ただ起こるのである。

――インテグラルヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ

2014年7月15日火曜日

どうのような忍耐、どれほどの熱意

”大いなる真剣をもって”――。それは、注意力のすべてと心のすべてを注いで、必ず成功してみせるという固い信念をもって、という意味である。世俗の事柄や、人聞を獲得しようとするときでさえ、人は夜も昼もそれに励む。眠るのを忘れ、食べることも忘れて、精魂を傾ける。世俗的な事柄を達成しようとするときにさえこの条件が必要なら、ヨーガの成功にはいったいどれほどのものが必要だろう? そうだ、今日播いた種がどれぐらい根を張ったか知りたくて、翌日にはそれを掘り返してみるというような、子供じみた真似はやめよう。われわれにはこれらの三つの資質、すなわち忍耐と献身と信念が必要である。

ここへ来るといつも私は、ヒンドゥーの聖典に出てくる小話を思い出す――

天人の住むデーヴァ・ローカすなわち天界に、ナーラダと呼ばれる大仙人がいる。(偉大なヨーギーというものは、ちょうどこの地上にもいるように、神々の世界にもいるのである。)このナーラダというのは、あらゆる世界を経巡っている仙人で、ときにはわれわれ人聞がどんなふうに暮らしているかを見るために、この地上にもやって来る。
ある日彼が森の中を通りかかると、あまりにも長い間膜想していたために、全身がびっしり蛾塚で覆われてしまったヨーギーに出会った。そのヨーギーがナーラダを見て言った、
narada

2014年7月4日金曜日

Amazing Grace(驚くべき恩寵)


「アメイジンググレイス」

アメイジンググレイス
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか

これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった

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