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2014年11月3日月曜日

愛と慈悲とは―ダライラマ14世「思いやり」



――ダライラマ14世「思いやり」より

愛と執着という二つの感情は、他者に対する親密な感情をもっているという点で、とても似た性質をもっていますね。そしてもちろん、親密な感情に加えて、相手に対する関心と思いやりも存在しています。それではこの二つの感情の違いは何なのでしょうか?


愛と慈悲は、偏見のない心


本当の意味での愛と慈悲は、偏見のない心です。しかし、執着は偏った見方をする心なのです。さらに、愛と慈悲の心は智慧と密接に結びついていますが、執着は煩悩に、究極的には無明に結びついているのです。

ほとんどの宗教は、愛と慈悲がいかに大切であるかを説いていますね。そこで説かれているのは本物の愛と慈悲のことですから、その教えには忍耐の心を養うこともともに説かれています。

しかし、執着は偏見に基づいた心なので、ある特定の人にだけ執着をするわけですから、その他の人たちに対しては距離を置いていることになります。

そこで、執着と怒りとは同時に起こってくるのです。なぜならば、これらの感情は偏見に基づいているため、自分の好きな人に対しては執着心を起こし、嫌いな人に対しては嫌悪の心を起こすからです。偏見に基づいた心は、実際のありようをゆがめて見てしまいます。


自分とまったく変わりはないのだという理解に基づいて、相手のことをやさしく思いやる心


本当の意味での愛と慈悲は、決して怒りの心とともに起きてくることはありません。本物の愛と慈悲は、現実を広い目で巨視的に見ているため、偏見をもつことはなく、怒りの心が生じる余地もありません

また、相手に対する親密な感情に基づいて生じる執着の心は、相手の人の態度に依存しています。相手が自分に対して友好的な態度を示し、その人がとても素敵な人に見えるとき、私たちの心には執着の心が芽生えてくるのです。

ところが愛と慈悲の心は、相手が自分に対してどんな態度をとるかによって変わることはありません。

相手も自分と同様に幸せを望み、苦しみをなくしたいと望んでおり、それらの望みをかなえる権利をもっているという点においても、自分とまったく変わりはないのだという理解に基づいて、相手のことをやさしく思いやる心が愛と慈悲なのです。ですから相手が敵であっても、友人であっても、愛と慈悲の心は決して分け隔てをすることはありません。

敵も友人も、どちらも苦しみや痛みを望まぬ命ある存在であるという意味で、自分と何一つ変わりない同じ一人の人間なのですから、彼らも柔な苦しみを乗り越え、幸せになる権利をもっているのだということを考えることによって、すべての人たちに対する親密な感情を育て、思いやりを育むことこそ、本物の愛と慈悲の心なのです。

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