マルパはチベットのロタクというところで、一〇一二年に生まれました。
子供のころのマルパは大変乱暴でかんしゃく持ちだったので、両親は彼を仏教の師のもとに預けました。マルパはドクミという師のもとでインドの言葉や初歩的な教えなどを学びましたが、教えの深い部分をドクミが教えてくれなかったので、マルパは自らインドに行く決意をしました。
マルパは両親の財産の自分の取り分を強引に手に入れ、そのお金でインドへと旅立ちました。
このころは、インド仏教のチベットへの輸入が盛んに行なわれていた時期で、マルパ以外にも多くのチベット人が、教えを求めてインドに旅していました。
しかしマルパは、他の学者たちとは少し違った道をとりました。学僧ではなく、ナーローという密教行者の弟子になったのです。ナーローはもとはインド最大の僧院であるナーランダー僧院の僧院長として大変有名でしたが、その地位を捨て、僧院を去り、密教行者ティローの弟子になった、いわば異端者でした。
ナーローはマルパを弟子として受け入れ、多くの秘法を伝授しましたが、自分が教えるだけではなく、他の何人かの密教行者の下へマルパを送り出し、教えを受けさせました。マルパはそれらの多くの教えを学び、研究し、修行し、成就し、自分のものとしていきました。
この最初のインドへの旅において、マルパにはニュという名前のライバルがいました。彼は別の師のもとにつき、いろいろな教えを学んでいましたが、その知識においても、成就においても、マルパのほうが優れていました。そこで嫉妬したニュは、チベットへの帰りの旅中において、事故に見せかけて、マルパがインドから集めてきた大事な経典を、すべて河に投げ捨ててしまったのです。
マルパは、苦労して集めた経典が消えてしまって、一瞬悲しくなりましたが、しかしそれら経典に書かれている秘儀はすべてマルパ自身がすでに会得していたので、そう思うと悲しみは消えました。このエピソードは、マルパが単にインドから経典をチベットに持ってきて翻訳しただけの学者というわけではなく、成就者だったことを示しています。
マルパはいったんチベットに戻った数年後、再びインドに旅立ち、ナーローを初めとする師たちに再会し、以前受けた教えを復習すると共に、新しい教えを受けました。マルパはナーローにまた必ず戻ってくることを約束し、チベットへと帰りました。
マルパはチベットで偉大な仏教の師として有名になりました。彼はダクメーマという本妻と、他の八人の妻と多くの子供を持ち、ビジネスを行ない、大きな家に住み、多くの弟子や信者を持ちました。無一物で洞窟から洞窟へと放浪して修行した彼の一番弟子のミラレーパとは全く逆のスタイルだったわけですが、これが良いとか悪いとかではなく、これが彼のスタイルだったのです。
ちなみに、マルパの妻ダクメーマとは、彼のイダム(守護尊)であったへーヴァジュラの妃の名であり、彼女も含めた彼の九人の妻たちは、「へーヴァジュラ・タントラ」に出てくる九人の女神たちを表わし、マルパの家はへーヴァジュラの曼陀羅を表わしていたといわれています。
マルパには四人の中心的弟子がいましたが、その中でも最も有名な一番弟子がミラレーパでした。あるときマルパが夢で見た内容とミラレーパが夢で見た内容が一致し、再度ナーローのもとに行かなければいけないというメッセージを受け取ったマルパは、高齢を理由としたみなの反対を押し切って、一人で三度目のインドへの旅に出ました。
しかしそのころ、ナーローは非常に特殊な状態になっていました。普通の人では会うこともできないような状態で修行をしていたのです。
マルパは、師に会いたいという強烈な一心で、みなの助けを借りながら、八ヶ月間、ナーローを探し続けました。
そうしてついにナーローに会い見えることができたマルパは、チベットで集めてきた黄金を、惜しげもなくすべてナーローに布施しました。しかしナーローは、
「私には黄金は必要ない」
と言って、受け取ろうとしませんでした。マルパは、
「あなたには黄金は必要ないかもしれませんが、私自身の、そしてこの供物を集めるために助けてくれた人々の、そしてすべての衆生の功徳の完成のために、どうかお受け取りください」
と懇願しました。するとナーローは、
「では、これがグルと三宝への布施となるように」
と言ってその黄金を受け取ったのですが、そのまますぐにぽいと森の中に捨ててしまったのでした。
黄金を集めたときの苦労を思い出し、マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローは、
「私にもし黄金が必要なら、この大地すべてが黄金なのだ」
と言って大地を足で踏むと、大地が黄金になったのでした。
この三度目の出会いにおいて、ナーローは、以前教えていなかった秘儀の精髄を、マルパに授けました。
そしてナーローは、マルパの系統の将来がどのようになるかを占うために、ある神秘的な現象をあらわしました。マルパの守護尊であるへーヴァジュラの姿を実際に出現させたのです。そこでナーローは言いました。
「見よ、九体の女神を伴った、お前の守護尊のへーヴァジュラが、お前の眼前の空に現われたぞ。お前は私を礼拝するか? それともこの守護尊を礼拝するか?」
マルパは、瞑想の守護尊よりも生きたグルのほうが大事であるということを知っていましたが、ナーローによってあまりにリアルに顕されたへーヴァジュラのヴィジョンに圧倒され、へーヴァジュラのほうを礼拝しました。それを見たナーローは、
「グルが存在する以前には
釈迦牟尼如来の名前さえ聞かれなかった
千カルパのすべてのブッダたちは
ただグルゆえにやってくる」
と言うと、へーヴァジュラのヴィジョンはすべてナーローの中に溶け込んでいきました。
この出来事によってナーローは、マルパの子孫の家系は途絶えるが、教えの家系は広く永く続くだろうということを予言しました。
マルパには数人の息子がいましたが、修行者の素質があるのはタルマドデという息子だけで、マルパは教えのすべてを、このタルマドデに授けました。しかし三度目のインド旅行からマルパがチベットに帰った後、落馬事故によってタルマドデは死んでしまいました。ナーローの予言どおり、マルパの子孫の系統は残らなかったのです。
ところで、マルパはトンジュクという秘儀を会得していました。これは自分の肉体から意識を抜け出させ、死んだばかりの死体に乗り移り、自在に動かし、また自分の肉体に戻ってくることのできる秘儀です。マルパはこの教えをタルマドデだけに授けたのですが、タルマドデが死んでしまったので、この教えはチベット仏教に残らなかったのでした。
ちなみにタルマドデは、死の間際に鳩の死体に意識を移し変え、そのままインドに飛んでいって、死んだばかりのある少年の肉体に乗り移りました。その少年は後に聖者ティプパとして有名になりました。
ナーローの予言どおり、マルパの最愛の息子が死んで、子孫の系統は途絶えましたが、教えの系統は、一番弟子ミラレーパが聖者として有名になり、その弟子ガンポパが教義体系を整理してカギュ派の礎を作り、その後、カギュ派の流れはチベット仏教でも一、二を争う大きな系統となって現代まで続いています。
(出典:ヨーガスクール・カイラス・ブログ)
子供のころのマルパは大変乱暴でかんしゃく持ちだったので、両親は彼を仏教の師のもとに預けました。マルパはドクミという師のもとでインドの言葉や初歩的な教えなどを学びましたが、教えの深い部分をドクミが教えてくれなかったので、マルパは自らインドに行く決意をしました。
マルパは両親の財産の自分の取り分を強引に手に入れ、そのお金でインドへと旅立ちました。
このころは、インド仏教のチベットへの輸入が盛んに行なわれていた時期で、マルパ以外にも多くのチベット人が、教えを求めてインドに旅していました。
しかしマルパは、他の学者たちとは少し違った道をとりました。学僧ではなく、ナーローという密教行者の弟子になったのです。ナーローはもとはインド最大の僧院であるナーランダー僧院の僧院長として大変有名でしたが、その地位を捨て、僧院を去り、密教行者ティローの弟子になった、いわば異端者でした。
ナーローはマルパを弟子として受け入れ、多くの秘法を伝授しましたが、自分が教えるだけではなく、他の何人かの密教行者の下へマルパを送り出し、教えを受けさせました。マルパはそれらの多くの教えを学び、研究し、修行し、成就し、自分のものとしていきました。
この最初のインドへの旅において、マルパにはニュという名前のライバルがいました。彼は別の師のもとにつき、いろいろな教えを学んでいましたが、その知識においても、成就においても、マルパのほうが優れていました。そこで嫉妬したニュは、チベットへの帰りの旅中において、事故に見せかけて、マルパがインドから集めてきた大事な経典を、すべて河に投げ捨ててしまったのです。
マルパは、苦労して集めた経典が消えてしまって、一瞬悲しくなりましたが、しかしそれら経典に書かれている秘儀はすべてマルパ自身がすでに会得していたので、そう思うと悲しみは消えました。このエピソードは、マルパが単にインドから経典をチベットに持ってきて翻訳しただけの学者というわけではなく、成就者だったことを示しています。
マルパはいったんチベットに戻った数年後、再びインドに旅立ち、ナーローを初めとする師たちに再会し、以前受けた教えを復習すると共に、新しい教えを受けました。マルパはナーローにまた必ず戻ってくることを約束し、チベットへと帰りました。
マルパはチベットで偉大な仏教の師として有名になりました。彼はダクメーマという本妻と、他の八人の妻と多くの子供を持ち、ビジネスを行ない、大きな家に住み、多くの弟子や信者を持ちました。無一物で洞窟から洞窟へと放浪して修行した彼の一番弟子のミラレーパとは全く逆のスタイルだったわけですが、これが良いとか悪いとかではなく、これが彼のスタイルだったのです。
ちなみに、マルパの妻ダクメーマとは、彼のイダム(守護尊)であったへーヴァジュラの妃の名であり、彼女も含めた彼の九人の妻たちは、「へーヴァジュラ・タントラ」に出てくる九人の女神たちを表わし、マルパの家はへーヴァジュラの曼陀羅を表わしていたといわれています。
マルパには四人の中心的弟子がいましたが、その中でも最も有名な一番弟子がミラレーパでした。あるときマルパが夢で見た内容とミラレーパが夢で見た内容が一致し、再度ナーローのもとに行かなければいけないというメッセージを受け取ったマルパは、高齢を理由としたみなの反対を押し切って、一人で三度目のインドへの旅に出ました。
しかしそのころ、ナーローは非常に特殊な状態になっていました。普通の人では会うこともできないような状態で修行をしていたのです。
マルパは、師に会いたいという強烈な一心で、みなの助けを借りながら、八ヶ月間、ナーローを探し続けました。
そうしてついにナーローに会い見えることができたマルパは、チベットで集めてきた黄金を、惜しげもなくすべてナーローに布施しました。しかしナーローは、
「私には黄金は必要ない」
と言って、受け取ろうとしませんでした。マルパは、
「あなたには黄金は必要ないかもしれませんが、私自身の、そしてこの供物を集めるために助けてくれた人々の、そしてすべての衆生の功徳の完成のために、どうかお受け取りください」
と懇願しました。するとナーローは、
「では、これがグルと三宝への布施となるように」
と言ってその黄金を受け取ったのですが、そのまますぐにぽいと森の中に捨ててしまったのでした。
黄金を集めたときの苦労を思い出し、マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローは、
「私にもし黄金が必要なら、この大地すべてが黄金なのだ」
と言って大地を足で踏むと、大地が黄金になったのでした。
この三度目の出会いにおいて、ナーローは、以前教えていなかった秘儀の精髄を、マルパに授けました。
そしてナーローは、マルパの系統の将来がどのようになるかを占うために、ある神秘的な現象をあらわしました。マルパの守護尊であるへーヴァジュラの姿を実際に出現させたのです。そこでナーローは言いました。
「見よ、九体の女神を伴った、お前の守護尊のへーヴァジュラが、お前の眼前の空に現われたぞ。お前は私を礼拝するか? それともこの守護尊を礼拝するか?」
マルパは、瞑想の守護尊よりも生きたグルのほうが大事であるということを知っていましたが、ナーローによってあまりにリアルに顕されたへーヴァジュラのヴィジョンに圧倒され、へーヴァジュラのほうを礼拝しました。それを見たナーローは、
「グルが存在する以前には
釈迦牟尼如来の名前さえ聞かれなかった
千カルパのすべてのブッダたちは
ただグルゆえにやってくる」
と言うと、へーヴァジュラのヴィジョンはすべてナーローの中に溶け込んでいきました。
この出来事によってナーローは、マルパの子孫の家系は途絶えるが、教えの家系は広く永く続くだろうということを予言しました。
マルパには数人の息子がいましたが、修行者の素質があるのはタルマドデという息子だけで、マルパは教えのすべてを、このタルマドデに授けました。しかし三度目のインド旅行からマルパがチベットに帰った後、落馬事故によってタルマドデは死んでしまいました。ナーローの予言どおり、マルパの子孫の系統は残らなかったのです。
ところで、マルパはトンジュクという秘儀を会得していました。これは自分の肉体から意識を抜け出させ、死んだばかりの死体に乗り移り、自在に動かし、また自分の肉体に戻ってくることのできる秘儀です。マルパはこの教えをタルマドデだけに授けたのですが、タルマドデが死んでしまったので、この教えはチベット仏教に残らなかったのでした。
ちなみにタルマドデは、死の間際に鳩の死体に意識を移し変え、そのままインドに飛んでいって、死んだばかりのある少年の肉体に乗り移りました。その少年は後に聖者ティプパとして有名になりました。
ナーローの予言どおり、マルパの最愛の息子が死んで、子孫の系統は途絶えましたが、教えの系統は、一番弟子ミラレーパが聖者として有名になり、その弟子ガンポパが教義体系を整理してカギュ派の礎を作り、その後、カギュ派の流れはチベット仏教でも一、二を争う大きな系統となって現代まで続いています。
(出典:ヨーガスクール・カイラス・ブログ)