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2016年3月3日木曜日

神を信じる、自分を信じることの意味

信じる心とは


信じる心とは魂の属性の一つです。魂が宇宙の≪創造力≫を知る、その知識に由来します。わたし達は、肉体の五感を通して肉体を認識します。

同じように、わたし達は、魂の属性の働きを通して魂を知ります。魂の本性である信じる心を否定し、放棄していると、ついには、わたし達の意識から信じる心が失われてしまいます。信じることの意味を知り、実践するならば、それは山をも動かすものになります。

2016年2月1日月曜日

瞑想とは

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瞑想とは、≪創造力≫が肉体に備わる経路を通って上昇し、敏感な霊的中枢を介してそれが全体に送り出されるよう、その流れを阻害するあらゆるものをわたし達自身のから取り除くことに他なりません。正しい瞑想は私たちの肉体と精神の両方を鍛えます。聖書にも、主の御使いから食べ物を与えられたエリアが四十日四十夜荒れ野の中を歩き通したとあります。

2015年7月1日水曜日

「与えること」だけが、心に残るただ一つの思いとなる。



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女性の出家修行者たちはミラレーパに、自分自身の道はどうやったら見つかるのかと尋ね、更なる教えを懇願しました。答えてミラレーパは歌いました。

わがグル、
慈悲者に敬意を払います。

どうか御身の慈悲の波を
お与えください。

願わくば行者の私に、
快く瞑想させたまえ。

あなた方、
新しい世代の子供たちは
欺きに満ちたカルマが
はびこる町に住んでいるが
ダルマの輪はいまだ切れていない。

あなた方はブッダの
教えを聞いたが故に
こうして私のもとへやってきて、
迷いの道を避けたのだ。

常に功徳を積みつづける行によって
帰依の素質が育つ。

やがてそれによって
祝福の波があなた方に入り
類似と真の悟りが育つ。

しかしあなた方が
たとえこれらのすべてを
行なったとしても
完全に習得することがなければ、
ほとんど役には立たない。

あなた方を気の毒に思い
私は今、この教えを授けよう。

よく聴け、若き友たちよ。

ひとりでひっそりと住む時は
町の楽しみを思ってはならない。

さもなくば
悪魔があなたの心に生じるだろう。
心を内に向けよ。

そうすれば、
あなた方は道を見つけよう。

忍耐と決意を持って瞑想するときは
輪廻の邪悪なものや
いつ訪れるかわからない
死を思い浮かべ
世間の楽しみを
渇望しないようにせよ。

そうすれば、
勇気と忍耐が心に芽生え
あなた方は道を見つけよう。

修行の深遠な教えを
懇願するときは学識や、
学者になることを求めてはいけない。

さもなくば、
現世の行為と欲望が力を奮い
そして、この生そのものが浪費される。

謙虚でつつましくありなさい。

そうすれば、
あなた方は道を見つけよう。

瞑想中にさまざまな体験が訪れても
得意になって、それを吹聴してはならない。

さもなければ、
女神や母なる神をかき乱す。

怠惰になることなく瞑想しなさい。

そうすれば、
あなた方は道を見つけよう。

グルに従うときは
グルの長所や欠点を
見ようとしてはいけない。

さもなければ、
欠点の山を見つけてしまうことになる。

信と忠実さによってのみ
あなた方が道を見つけよう。

ダルマの兄弟姉妹と
聖なる集いに出るときは
先に並ぼうと考えてはいけない。

さもなくば
憎しみと渇望を生起させ
戒にそむくだろう。

自己を調和させ、互いに理解し合え
そうすれば、あなた方は道を見つけよう。

村で施し物を乞う時は
偽りや搾取のために、
ダルマを使ってはならない。

さもなくば、
自分自身を低い道に落とすことになる。

正直で誠実でありなさい
そうすれば、あなた方は道を見つけよう。

しかし何にもまして、いつでもどこでも、
決して思いあがったり、
うぬぼれたりしてはならない。

さもなければ
自己を過大評価して、
偽善で押しつぶされてしまうだろう。

欺きと偽りを捨て去れば
あなた方は道を見つけよう。

 道を見つけた人は、恵み深き教えを人々に伝えられる。
 こうして自他を助け、
 「与えること」だけが、心に残るただ一つの思いとなる。

―ミラレーパの十万歌



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2014年7月19日土曜日

瞑想の徴

自分が本当に瞑想していることがわかるのは、いつか? それを知るための目安がある。

たとえば四時半に座って瞑想を始めるとする。そして瞑想に一時間を当てておくとする。そして、五時半にベルが鳴る。そのときもし、「え? こんなに早くベルを鳴らすのは誰だ? 座ってからまだ五分じゃないか」と感じたら、それは瞑想だったと言ってもよい。ところが五分間を一時間に感じたら、それは瞑想ではない、それはまだ集中していたのだ。瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。だから、突然瞑想が破られたら、あなたは、「私の身体に何が起きたのだろう?」と不思議に思うだろう。真の瞑想では、身体さえも忘れ去られる。あなたは時間と空間を超える、つまりあなたは身体を脱け出す――。”身体を脱け出す”と言っても、空中を浮遊するというような意味ではない。心が身体意識を超えるという意味である。

その点で瞑想は睡眠に似ている。睡眠中は、身体があるということがわからない。それは確かにそれに気づかないのだ。睡眠が本当に深いときには、誰かがあなたの身体を別の場所へ移動させても、そのことにすら気づかない。そして眼が醒めたとき、「私はソファで寝ていたはずだが……誰が私をベッドに運んだのだろう?」と言う。

瞑想である徴は、他にもまだある。初めのうち、身体を超えるとき、たいへん軽く感じる。またもちろん、瞑想の対象と関係したすばらしいヴィジョンを得ることもある。ときには、関係はなくとも、非常にすばらしく、高揚的なヴィジョンであることもある。またときにはヴィジョンではなく、単に美しい光であったりする――たとえば美しい月光を浴びているように思われたりするだろう。あるいは海鳴りとか、鐘の音とか、美しいフルートの音色とかいうような、音であるかもしれない。これらはすべて、出遭うかもしれないいろいろな徴である。しかし普通私はこうしたことをあまり話さないことにしている。それは、そういうことを聞くと、「そういうことが今私に起こっているんだ」というふうに想像してしまうからである。それは起こすのではなく、ただ起こるのである。

――インテグラルヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ

2012年4月15日日曜日

ささげる瞑想

最近私は風邪を引いて、なかなか回復しなくて、免疫力を高めようとネットで調べ、免疫を高める食事をしようと試みていた。

もともとの私の食事は、昼は卵サンドイッチ、夜は納豆ソバかラーメンサラダであり、私の体は主に

・卵
・小麦粉
・大豆

でできているんじゃないかと思われ、風邪がなかなかな直らないと、さすがに栄養が足りてないかな?と気になったのだ。

そこでレバーの甘露煮を作って食べていたが、調理する過程で
「レバーに真我がいたらどうしよう?」
と気になった。

でも先生に質問して、真我は心臓に宿っているということと、そもそも健康に執着していたなーと気づいた。
風邪になったとしても、病気になったとしても神が与えたので、喜んで受けようとバクティ的発想になった。

そういえば、最近ささげる瞑想をしていなかったので、またささげる瞑想を始めた。

以前、あらゆる執着しているものをささげる瞑想をしていた時があり、自分が執着しているものの他に、見た景色もささげていたら、ある日、札幌の冬の曇り空の町が「キラキラフィルター」を通したように、町がキラキラして見えたことがあった!
とても綺麗だった。

最終的には、「私」も神にささげていきたい。


神にささげる生け贄。


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