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2016年2月1日月曜日

瞑想とは

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瞑想とは、≪創造力≫が肉体に備わる経路を通って上昇し、敏感な霊的中枢を介してそれが全体に送り出されるよう、その流れを阻害するあらゆるものをわたし達自身のから取り除くことに他なりません。正しい瞑想は私たちの肉体と精神の両方を鍛えます。聖書にも、主の御使いから食べ物を与えられたエリアが四十日四十夜荒れ野の中を歩き通したとあります。



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瞑想は、物思いにふけったり、白昼夢を見ることではありません。瞑想とはわたし達の精神と霊を奮い立たせ、創造主との結びつきに由来する精神と霊の本当の力を発揮せしめることです。これこそが真の瞑想です。

瞑想は、内なる自己からくる祈りである、ということもできます。つまり瞑想は、肉体としての人間の内的な働きであると同時に、≪霊≫によって覚醒された魂の働きでもある、ということです。祈りの中でわたし達は神に語りかけ、瞑想の中では神がわたし達に語りかけます。

祈るだけで十分か?


問うだけで答えが得られるでしょうか。そんなことはありません。しかし、問うことでわたし達が求めていることを示すことになります。祈りについても同じことがいえます。わたし達は祈ることで、わたし達の生活において神の約束が現実のものとなるよう、神の導きと助けを切望していることを天の父にしめします。しかしながら、わたし達の内側に現われる静かで小さなささやきを聴くには、また「すべて良し」と知るには、わたし達の祈りという準備をし、しかる後に静かに耳をすませ、じっと待つという姿勢が必要になります。祈りはそれ故瞑想の土台です。

静まったときのみ、わたし達は神を知ることができます。そして神を知ったときに初めて、わたし達は心から「神よ、あなたの御心が行われますように」ということができるのです。「神はわたし達と共に食される」という言葉の意味が、この時解されます。

わたし達は祈りにおいて自己の浄化を求めます。真実の瞑想を得るには、神のとの親しき交わりにかなう自分になれるよう、心身を浄化しなければなりません。そのように、祈りと瞑想は互いに補い合う関係にあります。


―神の探求1 エドガー・ケイシー口述

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