いったん自分の心に植えつけはじめた発菩提心の種子をそこねることなく、それをぐんぐんと大きく成長させていくために、この発菩提心の修行は、いつでもどこでも、しょっちゅう続けていなければならない。そのやり方は、こうだ。
発菩提心の瞑想は、帰依の場合と同じようにラマ、守護神、ダーキーニーなどからなる大きな集会樹を眼前の空間にありありと観想することからはじめられる。集会樹につどう者たちが、あなたをじっと見つめていることを感じなさい。あなたは、すべての生き物たちを利するためすぐれた心の覚醒を求めることを誓い、またこの輪廻から生き物たちが一つ残らず救いだされることを願って、つぎの詞章を唱えるのである。
ホー 水に映る月のようなさまざまな虚像にひきずられ
輪廻の鎖の輸を浮沈する生き物たち
彼らすべてがリクパに光輝く法界に安らうことができるよう
四無量心こめて菩提心を発こします
発菩提心の瞑想は、 帰依の場合と同じようにラマ、守護神、 ダーキーニーなどからなる大きな集会樹を眼前の 空間にありありと観想することからはじめられる |
ホー 水に映る月のようなさまざまな虚像にひきずられ
輪廻の鎖の輸を浮沈する生き物たち
彼らすべてがリクパに光輝く法界に安らうことができるよう
四無量心こめて菩提心を発こします
「ホー」は感嘆詞で、まあなんと、という驚きがこめられている。私たちが五感でとらえ、日常的な知性でとらえているこの世界は、さまざまな姿、形、現象であふれでいる。
この形やあらわれでつくりだされた現実を、私たちは確かな実体のあるものだと思いこんでいる。ところがその現実とは、水に映った月、幻影、屡気楼のようなもので、実際その場にはなんの実体もないものなのである。しかしこの虚像にすぎないものが、生き物たちをあざむく恐るべき力をふるっている。目に映る形、耳に聞く音、鼻に感ずる匂ぃ、舌の味覚、身体の触感などがあたえる感覚にひきずられ、実体のない現実のふるう幻影にほんろうされ、生き物たちは輪廻におちこんでしまう。それは出口のない鎖の輸のようなもので、生き物たちはその中で浮沈をくりかえしているのだ。
しかし生き物たちの心の本然のありようは、リクパと呼ばれる光を放つ法身そのものにほかならない。私は四無量心をこめて菩提心をおこそう。輪廻に迷うすべての生き物が心を解放し、心の本然のありようにたどりつき、リクパに光輝く法界に安らうことができることを願いながら。この詞章にはそんな意味がこめられている。
ありありと観想した集会樹に向かって、この発菩提心の詞章をくりかえし何回も唱えなさい。普通でも一日に少なくも六回、修行者ならば十万回唱え終わるまで、何日もこの瞑想をつづけなさい。一回ごとのセッションが終わる時には、まず集会樹につどうラマや神々に深い信頼をよせ、意識を集中するのである。すると喜んだ集会樹から、あなたに強い光が送られてくるだろう。あなたはこの光に一気に溶けこんで、集会樹のラマや神々と一体になってしまう。ラマや神々は空の虹が消えていくように中央のグル・リンポチェに溶けこんでいく。グル・リンポチェの身体も胸の《心滴》に溶けて、この《心滴》も消え去ったあとには青空のような何ひとつない空間が残されているだけだ。
この空性の状態にできるだけ長く安らいつづけなさい。
瞑想から起きて、座を立とうとする前に、あなたはすぐれた心の覚醒をすべての生き物が得ることを祈って、こう唱えるとよい。
宝のごときすぐれた心の覚醒よ
それがいまだに生まれていないものの心に生まれでるように
すでに生まれているものがその心から離れることなく
すこやかな成長をとげていくように
―改稿 虹の階梯 チベット密教の瞑想修行
フーム |