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2013年6月29日土曜日

『私意識』アハンカーラ


「この「私」・自我とは、あのお方自身が置いておかれたのです。
この自我・私とは、あのお方の遊び、あのお方の遊技です。」 

「神に心を置く、そのような人こそ真の人間です。
更には、神聖な意識を持つ人、たとえば、神の意識のある人、純粋精神に目覚めている人、そのような人たちは、神が真実で、その他一切は無常である。
と、間違いなく知っています。」

「私という意識があるあいだは、どうしても相対界(転変の世界)を棄てることは出来ません。
これではない、これではない、と否定を重ね、瞑想のヨーガによって、人は実体・ブラフマンに到達することが出来るのです。」

「あなた方個人の存在は、どこにあるのですか?
あのお方が、すべてのものになっておられるのです。
そのお方を知らない間、「私」、「私」と繰り返しているだけです
すべての人が、あのお方を知ることが出来ます。すべての人が救われるでしょう。
ところがある人は朝のうちに食べることが出来、ある人は昼の時間に、ある人は夕暮れになります。
しかし、誰も食事無しに終わる人はいません。
すべての人が、自分自身の本来の姿を知ることが出来るでしょう」

「あの方を誰が知ることができるでしょうか?
私は知ろうなどと試みたことはありません。
わたしはあのお方を、ただお母さん、と言って呼びます。
母は好きなようになさいます。
あのお方の思し召しでないなら、思し召しではないことを知らせてくださるでしょう。」

「神は、あそこ、あそこと感じている間は、その人は無知です。
神はここ、ここと、知ったら、その人はブラフマンの明知を得ます。
心の清らかなる人は、決して、そのような富や、力や、神通力を神に祈りません。
心の底から真剣であれば、世俗にあっても神を得ることができます。
「私が」、「私のもの」これが無知です。
おお神よ、それは「あなたです」、そして「すべてはあなたのものです」これが明知です。」

―ラーマクリシュナ


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心もまた『自己』ではない。なぜならばそれは『私意識』アハンカーラの結果である。
ブッディ(知性)について言うならば、それはプラクリティが変容したものであり、『自己』ではない。

真我は、純粋意識であり、至福である。彼には生と死のような変化がない。そして肉体と心の結合から離れている彼は、ただのそれらの目撃者であり、監督者である。
彼は彼が顕現するものを通じての一切の付加物から離れている。彼は自ら、永遠に純粋なのだ。

そのように真我を知るならば、人は輪廻の束縛からの解脱を得る。
ゆえに、私は今御身に、究極の解脱に達するための手段をお教えいたそう。

おお、智者よ! 心して聞くがよい。
まず最初に、マハーヴィシュヌへの信仰を培いたまえ。それは御身の知性を浄化し、御身はそれによって純粋なる叡智をも得るであろう。
それから、御身は永遠に純粋な叡智と、影響を受けることなき真理を得るであろう。この叡智が完全に確立されるならば、御身はブラフマンの至高なる境地に達するであろう。
それゆえに、あらゆる信仰心を抱き、ハリそのものであられ、プラクリティを超越し、一切に遍在するラクシュミーの夫であられるラーマ様を礼拝するのだ。

己の愚行と敵対心を捨て去れよ。自己を明け渡したすべての者たちにとって愛おしきラーマ様の御足に避難せよ。
御身の息子、縁者と共に、シーター様をラーマ様のもとにお連れして返還し、降伏の印として完全なる礼拝を捧げるのだ。
そうすれば、御身は恐怖から解放されよう。
思慮なき者が、いかにして、至福の本質であり、非二元の存在であり、一切の者の胸の中に住まう至高なる真我であられるラーマ様のもとに、完全なる信仰を持って避難することなく、荒れ狂う波の輪廻の海を渡ることなどができようか?
もしそのようにしなければ、無智という炎に焼かれることから誰からも守ってもらえることなく、御身は霊性の堕落の深みに沈んでしまうのだぞ。
御身は、輪廻の辛苦から引き上げられる好機を得ることは決してなかろう。」

-ハヌマーンのラーヴァナに対する説教

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