最新記事

2013年9月27日金曜日

自分をとおしてクリシュナが食べている-Vyasa



 「いつも、すべてにおいて神を唯一なる行為者と見なさい。
それは、心の内側における態度の問題です。それは、他人を感動させるようとする欲求から、神に帰依する多くの者が装う外見上の謙虚さであってはなりません。
 このことをよく表している、こんな話があります。

 ゴーピー達にとって、新鮮なチーズを毎日クリシュナに届けることは彼女たちの日課でした。しかしある日、ジャムナ川が大洪水になり、ゴーピーたちはクリシュナのところまで渡ることができませんでした。『どうしたらいいのかしら』とみんな嘆いていました。
 そこで皆は、こちら岸に住んでいるクリシュナの偉大な帰依者・ビヤサのことを思い出しました。

『ビヤサは聖者だし、彼のところに行きましょう。もしかしたら、奇跡を起こして、なんとか川を渡らせてくれるかもしれないわ』と声を上げました。皆は出かけて、クリシュナのところまで行けるように助けてくださいと頼みました。
『クリシュナ!クリシュナ! いつも、いつも、聞こえるのはクリシュナの名前だけ。私のことはどうなっているのかね?』不機嫌なふりをしてビヤサは大きな声でいいました。

Vyasa(聖仙ビヤサ)
さて、ゴーピー達は戸惑ってしまいました。用意したチーズはクリシュナへのものでしたが、ビヤサがつまみ食いをするのを、誰もあえて拒めませんでした。皆は、ビヤサの助けて欲しいと頼んでいたので、しかたなく、すこしだけ差し出しました。すると、ビヤサは、食べるわ、食べるわ、次から次に、見るからにおいしそうに食べてしまったのです。
 お腹いっぱい食べられるだけ食べると、どういう訳か河岸の土手まで行き、そこで大声で言いました。

ああ、ジャムナ川よ、もし私が、何も食べていないと思うなら、川を割って道をつくりたまえ!』

『なんと言う、嘘つき!』ゴーピー達はささやきあいました。『あんなにがつがつ食べていたのに。それを、こんどはよくも川に命じて、何も食べていないことを質にして、従わせようとするなんて!』
 ところが、なんと、その瞬間に川は割けはじめ、道ができたのです。この不思議に思案して立ち止まる間もなく、ゴーピー達は競って向こう岸に渡り始めました。そして、クリシュナの庵にそっと近づいてみると、クリシュナは眠っていました。

 これはどうしたことか、と皆は思いました。クリシュナは、いつもは庵の外に立って、ゴーピー達がチーズを持って訪ねてくるのを待ちかねていたからです。
『クリシュナさま、今日はお腹がすいていないのですか?』と皆は声をあげました。
『うん……?』眠そうな目を開けてクリシュナが答えました。
「私たち、チーズを持ってきたのですけど、クリシュナさま』
『ああ、ありがとう。でも、もうお腹いっぱいなのだ』とクリシュナは言いました。
『でも、どうしてですか?だれかが、食事をお持ちしましたか?』
『うん、そうだ。向こう岸にいるビヤサが、たらふく食べさせてくれたよ』


 つまり、ビヤサはまず、クリシュナに食べ物を捧げていたのだ。そして食べている間ずっと絶え間なくクリシュナのことを思っていた。ビヤサはエゴの意識で食べていたのではなく、自分をとおしてクリシュナが食べているという意識で食べていたのだ
そのように、すべての人は自分を通して神が働いていることを感じるべきなのです。
『わたしが!わたしが!』と考えるのをやめ、かわりに、心のなかで、いつも『主よ、あなた、あなた、ただ、あなただけが!』と歌うのです」


―パラマハンサ・ヨーガーナンダ

2013年9月23日月曜日

グルの本質

 永い間、いくつもの生に渡って、真理を願い、あこがれ、求めて来て、それにカルマが十分に清められたときが重なると、一種の奇跡が起こる。私たちと常に共にいた【内なるグル】が、【外なるグル】となって姿を現すのである。私たちはまるで魔法のように外なるグルに出会うのである。この出会いこそが生における最も重要な出来事なのだ。この奇跡を理解し生かすことができれば、無智に永遠の終わりをもたらすことができるのである。

 ――ソギャル・リンポチェ


2013年9月15日日曜日

どうすれば神を見つけることができるか

 神を見つけるにはいろいろな方法があります。鎮静(心の沈黙)もその一つです。沈黙を行ずるときは、自分の意識の中に外から侵入しようとするすべての欲望を鎮めて、魂としての自己を感じられる所まで深く沈潜することです。
もう一つの方法は信仰です。すなわち、純粋な気持ちでひたすら神にこう訴えます――


スポンサーリンク


「主よ、あなたは私の意志に反して私をおつくりになりました。私にみ姿を見せてくださることはあなたの責任です」と。

しかし、しばらくこう訴えただけで、そのあと忘れてしまうようでは神の応えは得られません。神の応えが得られないのは、大概の人は本気でそれを求めていないからです。ふつうの祈りがなかなか叶えられない理由は、十分に信仰心がこもっていないからです。

あなたは、超意識に達するまで深く何回もくり返し祈らなければなりません。あなたの魂が神を求める熱意で燃えだすような祈りだけが、神を動かすのです。あなたは今までに、何かをどうしても叶えてほしいと思う事があったり、緊急にお金が入用だったりしたとき、そんなふうに熱心に祈った経験があるでしょう。そのときあなたは、自分の願望でエーテルを燃やしていたのです。神に対しても、それと同じ熱意を込めて祈りなさい。昼も夜も訴えなさい。そうすれば神は応えてくださいます。

(中略)

夜は瞑想の時です。神と交わらずにベッドに入ってはなりません。私も必ずそうしています。昨夜も私がベッドの上に座って瞑想していると、主の存在が私を包みました。部屋とそのすべてのものが、まばゆい光に変わりました。私は就寝したあとも、私はずっと主の腕の中に抱きしめられたままでした。それは今までに経験したこともない喜びでした。

この世界は、すべて神の心が投影している映画です。死は、あなたに、この恐ろしい生と死の宇宙映画が神ご自身の光によって映し出されていることをお示しなり、そのあと、神の光だけを残してすべての映像を消してしまわれるでしょう。そのときあなたは、万物が神の光と影とによって映し出された実体のない幻影であったことを知って笑い出すでしょう。そして、神の光だけが実在することを知ります。あなたは自分自身をこ迷夢からたたき起こして、自分が神の不滅の光の中の一部の光線であることを悟らなければなりません。この悟りは、最高のヨガの瞑想を行ずることによって得られます。それは、講義では伝えることのできない経験です。

人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集


スポンサーリンク

2013年9月10日火曜日

ガネーシャ・チャトゥルティ(Ganesh Chaturthi)

ヴェーダ暦のバドラパーダ月の4日(新月から4日目)に生誕したとされるガネーシャ。
その日が今年は昨日2013年9月9日だったようです。
インドではその吉兆の日に、ガネーシャ・チャトゥルティ(ガネーシャ神の降誕祭)として、盛大なお祭りが行われるそうです。

ガネーシャって、シヴァ神の息子でもあり、商業や学問、智慧を持った神様として有名ですが、「障害を取り除き、不正な性質を正す神」なのだそうですね。
ヴェーダ暦のバドラパーダ月の4日
(新月から4日目)に生誕したとされるガネーシャ。
私もささやかながらお供物を捧げ、お祈りをしました。

シーターラーマさんのブログに障害を取り除く祈りとして、サーラダデーヴィーの言葉が紹介されていたので、引用させていただきます。

「神よ、私は他人の欠点に目がいってしまいました。今までは、それが自身の性格に染みついていたため、障壁の原因となっていることに気がつきませんでした。私は、この習慣を改めて、神聖な性質を身につけます。今日から、誰の欠点も見ないようにします。私は、自身の崇高な目標から、心をそらさないようにします。私は古くから心に染みついたこの習慣を改めます。今後は、このような過ちを犯すことはありません。霊的な成長を阻害するマーヤー(幻力)に、私は心を許しません。神よ、どうかこのための力をお授けください。」


友人からの贈り物のガネーシャ

すべての人の障害が取り除かれますように。

シヴァの息子

2013年9月5日木曜日

友人をつくる聖なる方法 その二

 あなたが人間的欠陥を取り除いて、聖なる性質を現せれば現すほど、多くの友人ができるようになります。イエス・キリストも、佛陀も、クリシュナも、すべての人々の偉大な友でした。彼らのようになるためには、あなたも、他人に対する愛を完全なものにしなければなりません。あなたの友情が、まわりの人々から認められたとき、つまりいろいろな試練を含む彼らとの長い付き合いを通して、お互いがともに何の打算もない純粋な友情によって心から相手のことを思いやるようになったとき、あなたは、そのような人間関係の中に神が現れているのを見るでしょう。

人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集


ブラフマー神 「しかし、どうしてヴリンダーヴァンの御身の友たちは
御身の偉大なる功績に混乱していないのでしょうか? 
彼らは愛しき子として御身を敬愛しているだけでございます」 

クリシュナ「彼らの愛は純粋無垢でとても強いのだ、ブラフマーよ 
私がどんなことを行おうとも、彼らは純粋にわたしを愛する 
ヴェーダの叡智やヨーギーの瞑想によっては、わたしは簡単に理解されないだろう 
愛と献身によってのみ 私を理解することができるのだ

ルトル・クリシュナより

2013年9月4日水曜日

友人をつくる聖なる方法 その一

 真の友人を引き寄せるには、自分の中から利己心や、そのほかの醜い性格を取り除かねばなりません。友人をつくる最高の方法は、自分の性質を浄化して、利己的な衝動を排除し、純粋で、霊的に振る舞うようにし、また前世からすでに友情の基礎の出来ている相手との間に友情を築きあげることです。

友情は親子の間にも、夫婦の間にも、男同志の間にも、すべての人間関係に存在するべきものです。そこの条件はありません。あなたが純粋に友達なりたいという衝動を感じたとき、あなたはそこに、聖なる愛、すなわち神の存在を感じているのです。友情は、聖なる衝動です。神は、両親や親族となって子供である私たちの面倒を見るだけでは満足なさいません。そこで、われわれにも心からの無条件の愛を表現させる機会を与えるために、友人として現れるのです。



人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集

2013年9月3日火曜日

人に対して誠実で思いやりをもつこと

 もし、人間的向上を助けてくれるような真の友人が周りにいなかったら、その人はどんな人生でしょう。しかし、あなたの心には、真の友人を引き寄せることのできる磁石があります。
<スポンサーリンク>



その磁石とは、人のことをまず考える非利己的な心です。自己中心性な考えから解放された人は、そう多くはいません。しかし、非利己的は心は、他人のことをまず第一に考えることによって容易に養うことができます。母親には、普通こうした特性があります。母親の一生は奉仕です。夫や子供のことを第一に考えます。いつも自分のことよりも家族のことを考えているので、彼女のことはまわりの人が考えてあげる、というのがインドの家庭の伝統です。真の霊的教師たちも、これと同じ心得をアシュラムで教えています。

他人を思いやる心はなのよりも素晴らしい性質です。それは人間としての最大の魅力です。ですからそれを身につけなさい。だれかのどの渇いた人がいると、思いやりのある人はそれを察して水を与えます。思いやりとは他人の気持ちを察する心です。思いやりのある人は、人と一緒にいると、直観的に相手の望んでいる事を察知します。

2013年9月1日日曜日

み心のままに

 私は、霊的修行を始めたころ、この道に入れば良いことばかり起きるようになる、と期待していました。しかし、実際には、いろいろな困難が襲って来ました。そこで私は考えました、「自分は神に甘えて、神に多くを期待しすぎたのだ。これからは、『主よ、み心のままになさってください』と祈ることにしよう」と。そして、厳しい訓練に遭うたびにそう祈りました。私は、神が私の前に置かれたものは何でも受け入れよう、と決心しました。すると神はいつもその試練に打ち勝つ方法を教えてくださいました。

霊的に強くなると、死も問題ではなくなります。あるとき、私は死にそうになっている夢を見ました。しかし、私はそのとき、神にこう祈っていました、「主よ、み心ならば私は喜んで死にます」。すると、主が優しく私に触れられ、とたんに私はこう悟りました、「どうしてわたしは死ぬことができよう。海の波は死ぬことができない。それは海の中に沈むけれども、再び姿を現わす。波が決して死なないように、わたしも決して死ぬことはないのだ」と。

人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集

LinkWithin

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...