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2014年5月14日水曜日

真理の言葉 ダンマパダ 第十九章 道を実践する人

【第十九章 道を実践する人】



256 、 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。

257 、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。

258 、 多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、___かれこそ<賢者>と呼ばれる。

259 、 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人___かれこそ道を実践している人である。

260 、 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261 、誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。

262 、 嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

263 、これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。

264 、頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?

265 、大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。

266 、 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

267 、この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。

268 、269 、 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

270 、生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。

271 、272 、 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

真理の言葉 ダンマパダ 第十九章 道を実践する人

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