「それはつまり、一切のものを捨てて神に呼びかけよ、ということだ。彼のみが実在、他のすべては幻である。神の自覚無しには、あらゆるものが無意味である。これが偉大な秘密なのである。」
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熱心に神に祈ることだ。神はまさに我々の身内でいらっしゃる。我々は、彼に『おお神よ、あなたはどのようなお方なのですか。ご自身を私にお示しください。あなたは私にご自分を見せてくださらなければ行けません。そうでなければ、なぜあなたは私をお作りになったのですか』と言うべきなのだ。
あるシーク教徒が、あるとき私に言った。『神はお慈悲に満ちていらっしゃいます』と。私は言った。『なぜ彼を慈悲深いなどと言わなければならないのか。彼は我々の造り主なのだ。彼が我々に対して親切であったとて何の不思議があろう。両親は彼らの子供たちを育てる。それをおまえたちは親切の行為などと呼ぶか。彼らはそうするのが当然なのだよ』と。
それだから我々は、自分の要求を神に押しつけなければいけない。彼は我々の父母ではないのか。息子がもし世襲財産を要求して断食でもするなら、たとえ法の定める時期の三年前であっても、親は彼の取り分を渡すだろう。あるいは、子供が何パイスかを両親にねだって、繰り返し繰り返し、『お母さん、二パイスでよいからくださいな。この通り膝をついてお願いします』と言えば、母親もこの熱意を見て耐えられなくなり、お金を投げてやるのだ。
高徳の人たちとの交わりからは、もう一つの利益が得られる。それは、実在と非実在とを識別する力を育てる。神だけが実在、つまり不滅の実体であって、この世界は非実在、つまり移り変わるものである。人は自分の心が非実在のものの方にさまようのに気づくと同時に、識別力を使わなければいけない。象が隣人の庭のバナナの木を食べようと鼻を伸ばした瞬間に、それは象使いの鉄の突き棒の一撃をくらうのだ。」
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隣人「なぜ人は罪深い傾向を持っているのですか。」
師「神の創造には、あらゆる種類のものがある。彼は、善い人々と同じように悪い人々もお作りになった。我々に善い傾向をお与えになるのは彼である。そしてまた、我々に悪い傾向をお与えになるのも彼である。」
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隣人「なぜ神は悪い人々をお作りになったのですか。」
師「それは彼の思し召し、彼のお遊びだ。彼のマーヤーの中には、ヴィディヤー(明智)と共にアヴィディヤー(無明)もある。闇もまた必要なのだ。それは光の輝きをいっそう良くあらわす。
怒りや愛欲や貪欲が罪悪であるということは明らかだ。それではなぜ、神がそれらをお作りになったのか。聖者たちをお作りになるためである。人は、感覚を征服することによって聖者になるのだ。自分の情欲を克服した男にとって、不可能なことがあろうか。彼は、神の恩寵によって神を悟ることさえできる。また、彼の創造のお遊びの全部が、愛欲によって永眠している様を見てごらん。
悪い人々もやはり必要だ。あるとき、ある領地の小作人たちが始末におえなくなった。地主は、ならず者であるゴラク・チョウドゥリーを送らざるを得なかった。彼は実に過酷な管理人だったので、小作人たちは彼の名を聞いただけで震え上がった。
あらゆるものが必要なのだ。あるときシーターが言った。『ラーマ、アヨディヤーにある家が全部大邸宅だったら立派でしょうねえ。古い荒れ果てた家がたくさんあります』と。するとラーマが、『しかし、もしすべての家が立派であったら、石工たちはどうするだろう』と言ったという。(笑い)神はあらゆる種類のものをお作りになった。
彼は善い木々をお作りになり、そしてまた毒のある草木もお作りになった。獣たちの中にも善いものも悪いものもあり、あらゆる種類の生き物がある。――虎、ライオン、蛇などなど。」
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何が完全なる叡智であるか。そしてこのエゴはどういうものであるか。
『神のみが行為者である。他に行為者はいない』――これが完全なる叡智だ。私は行為者ではない。私は神の御手の中の道具に過ぎない。それだから私は言うのだ、『おお神よ、あなたが操縦者で私は機械です。あなたが主人で私は家です。あなたが御者で私は馬車です。私は、あなたが私を動かされるとおりに動きます。あなたがおさせになるとおりにおこないます。あなたが話させになるとおりに話します。私ではない、私ではない、あなたです、あなたです』と。」
ラーマクリシュナの福音 第二章「信者たちと共に」より
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熱心に神に祈ることだ。神はまさに我々の身内でいらっしゃる。我々は、彼に『おお神よ、あなたはどのようなお方なのですか。ご自身を私にお示しください。あなたは私にご自分を見せてくださらなければ行けません。そうでなければ、なぜあなたは私をお作りになったのですか』と言うべきなのだ。
あるシーク教徒が、あるとき私に言った。『神はお慈悲に満ちていらっしゃいます』と。私は言った。『なぜ彼を慈悲深いなどと言わなければならないのか。彼は我々の造り主なのだ。彼が我々に対して親切であったとて何の不思議があろう。両親は彼らの子供たちを育てる。それをおまえたちは親切の行為などと呼ぶか。彼らはそうするのが当然なのだよ』と。
それだから我々は、自分の要求を神に押しつけなければいけない。彼は我々の父母ではないのか。息子がもし世襲財産を要求して断食でもするなら、たとえ法の定める時期の三年前であっても、親は彼の取り分を渡すだろう。あるいは、子供が何パイスかを両親にねだって、繰り返し繰り返し、『お母さん、二パイスでよいからくださいな。この通り膝をついてお願いします』と言えば、母親もこの熱意を見て耐えられなくなり、お金を投げてやるのだ。
高徳の人たちとの交わりからは、もう一つの利益が得られる。それは、実在と非実在とを識別する力を育てる。神だけが実在、つまり不滅の実体であって、この世界は非実在、つまり移り変わるものである。人は自分の心が非実在のものの方にさまようのに気づくと同時に、識別力を使わなければいけない。象が隣人の庭のバナナの木を食べようと鼻を伸ばした瞬間に、それは象使いの鉄の突き棒の一撃をくらうのだ。」
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隣人「なぜ人は罪深い傾向を持っているのですか。」
師「神の創造には、あらゆる種類のものがある。彼は、善い人々と同じように悪い人々もお作りになった。我々に善い傾向をお与えになるのは彼である。そしてまた、我々に悪い傾向をお与えになるのも彼である。」
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隣人「なぜ神は悪い人々をお作りになったのですか。」
師「それは彼の思し召し、彼のお遊びだ。彼のマーヤーの中には、ヴィディヤー(明智)と共にアヴィディヤー(無明)もある。闇もまた必要なのだ。それは光の輝きをいっそう良くあらわす。
怒りや愛欲や貪欲が罪悪であるということは明らかだ。それではなぜ、神がそれらをお作りになったのか。聖者たちをお作りになるためである。人は、感覚を征服することによって聖者になるのだ。自分の情欲を克服した男にとって、不可能なことがあろうか。彼は、神の恩寵によって神を悟ることさえできる。また、彼の創造のお遊びの全部が、愛欲によって永眠している様を見てごらん。
悪い人々もやはり必要だ。あるとき、ある領地の小作人たちが始末におえなくなった。地主は、ならず者であるゴラク・チョウドゥリーを送らざるを得なかった。彼は実に過酷な管理人だったので、小作人たちは彼の名を聞いただけで震え上がった。
あらゆるものが必要なのだ。あるときシーターが言った。『ラーマ、アヨディヤーにある家が全部大邸宅だったら立派でしょうねえ。古い荒れ果てた家がたくさんあります』と。するとラーマが、『しかし、もしすべての家が立派であったら、石工たちはどうするだろう』と言ったという。(笑い)神はあらゆる種類のものをお作りになった。
彼は善い木々をお作りになり、そしてまた毒のある草木もお作りになった。獣たちの中にも善いものも悪いものもあり、あらゆる種類の生き物がある。――虎、ライオン、蛇などなど。」
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何が完全なる叡智であるか。そしてこのエゴはどういうものであるか。
『神のみが行為者である。他に行為者はいない』――これが完全なる叡智だ。私は行為者ではない。私は神の御手の中の道具に過ぎない。それだから私は言うのだ、『おお神よ、あなたが操縦者で私は機械です。あなたが主人で私は家です。あなたが御者で私は馬車です。私は、あなたが私を動かされるとおりに動きます。あなたがおさせになるとおりにおこないます。あなたが話させになるとおりに話します。私ではない、私ではない、あなたです、あなたです』と。」
ラーマクリシュナの福音 第二章「信者たちと共に」より
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