最新記事

2014年5月31日土曜日

raghupati raghava raja ram

1919年2月3日(月)PM4:30 モルトン・スクールにて

信仰歌は心を神へといざなう。ヨーギーたちは心を神に集中し続けるのだ。人は少しばかり『彼』への愛を開発すると、その至福の中に漂うだろう。

だから、ヨーギーは心を他の対象にさまよわせてはならないのだよ。心を神に向け、彼を愛するように努めなさい。家族を愛し、ずっと彼らに集中したとて、あなたは何を得るというのかね? いつか彼らは皆死ぬ。彼らを失うときには、あなたはその悲しみで苦しむだろう。私の友人の1人はナルマダ河の岸に小屋を建て、人生最後の13年間はそこでラーマの御名を唱えて、神を悟るよう懸命に努力していた。」

2014年5月25日日曜日

インドの聖典・ラーマーヤナから学ぶ義を貫くクンバカルナ

何度もみてしまう、ラーマーヤナ、クンバカルナの章。

クンバカルナは悪魔族の王ラーヴァナの弟。
たとえ死ぬ運命なのがわかっていても義を貫く。



弟ヴィビーシャナのダルマ。
クンバカルナの義。

2014年5月22日木曜日

あなただけが私の母





Twameva Mata
Chapita Twameva

Twameva Bandhu
Cha Sakha Twameva

Twameva Vidya
Dravinam Twameva

Twameva Sarvam
Mama Deva Deva

Twameva Sarvam
Mama Deva Deva


「あなただけが私の母」

2014年5月18日日曜日

ハヌマーンの物語




ハヌマーンってご存知ですか?一度はインドの神様の絵をご覧になったことがあるかと思いますが、今日はハヌマーンのお話を紹介したいと思います。

ハヌマーン

ハヌマーン(हनुमान् Hanumān)は、シヴァ神の11番目の化身で、ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』に出てくる猿の勇者です。
孫悟空のモデルにもなったといわれる、インドではとても人気のある神様なのですね。

『ラーマーヤナ』では地球に蔓延った悪を消滅させるために、至高者ヴィシュヌ神が「ラーマ」として地球に降誕し、悪を消滅させるお話ですが、シヴァ神もこの計画の遂行に、ハヌマーンとして『化身』を風神ヴァーユの力を借りて、猿の王の妃の子宮に運ばせ、地球に誕生させました。

「ラーマ」に帰依し、この神の計画を勇敢に遂行していく姿は、私たち人間が本来あるべき神に対する信や、数々の困難を乗り越えていく勇気を与えてくれています。
おそらく日本では、その詳細な物語は知るのが困難だったと思われますが、この素晴らしいお話を、日本語字幕つきで知ることができますので、ご興味あるかたは、是非ご覧ください。

(第一話)
あらすじ:地球に蔓延った悪のせいで、地球は悲鳴をあげていた。神々はヴィシュヌ神に地球を救ってくれるように懇願しにいく。そして地球を救うために降誕をする約束をした。シヴァ神はこの大いなる神の計画に、ハヌマーンを誕生させる――)

2014年5月14日水曜日

真理の言葉 ダンマパダ 第二三章 象

第二三章 象


 戦揚の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。

 馴らされた象は、戦揚にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。

 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大事おのれきな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。

 何となれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎みある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。

 「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて狂暴になっているときには、いかんとも制し難い。捕えられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。

 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、――象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

 つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。――泥沼に落ちこんだ象のように。

 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。

 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。

 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。

 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確率していることは楽しい。明らかな知惑を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。

真理の言葉 ダンマパダ 第十九章 道を実践する人

【第十九章 道を実践する人】



256 、 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。

257 、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。

258 、 多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、___かれこそ<賢者>と呼ばれる。

259 、 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人___かれこそ道を実践している人である。

260 、 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261 、誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。

262 、 嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

263 、これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。

264 、頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?

265 、大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。

266 、 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

267 、この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。

268 、269 、 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

270 、生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。

271 、272 、 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

真理の言葉 ダンマパダ 第十九章 道を実践する人

LinkWithin

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...