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2014年7月19日土曜日

瞑想の徴

自分が本当に瞑想していることがわかるのは、いつか? それを知るための目安がある。

たとえば四時半に座って瞑想を始めるとする。そして瞑想に一時間を当てておくとする。そして、五時半にベルが鳴る。そのときもし、「え? こんなに早くベルを鳴らすのは誰だ? 座ってからまだ五分じゃないか」と感じたら、それは瞑想だったと言ってもよい。ところが五分間を一時間に感じたら、それは瞑想ではない、それはまだ集中していたのだ。瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。だから、突然瞑想が破られたら、あなたは、「私の身体に何が起きたのだろう?」と不思議に思うだろう。真の瞑想では、身体さえも忘れ去られる。あなたは時間と空間を超える、つまりあなたは身体を脱け出す――。”身体を脱け出す”と言っても、空中を浮遊するというような意味ではない。心が身体意識を超えるという意味である。

その点で瞑想は睡眠に似ている。睡眠中は、身体があるということがわからない。それは確かにそれに気づかないのだ。睡眠が本当に深いときには、誰かがあなたの身体を別の場所へ移動させても、そのことにすら気づかない。そして眼が醒めたとき、「私はソファで寝ていたはずだが……誰が私をベッドに運んだのだろう?」と言う。

瞑想である徴は、他にもまだある。初めのうち、身体を超えるとき、たいへん軽く感じる。またもちろん、瞑想の対象と関係したすばらしいヴィジョンを得ることもある。ときには、関係はなくとも、非常にすばらしく、高揚的なヴィジョンであることもある。またときにはヴィジョンではなく、単に美しい光であったりする――たとえば美しい月光を浴びているように思われたりするだろう。あるいは海鳴りとか、鐘の音とか、美しいフルートの音色とかいうような、音であるかもしれない。これらはすべて、出遭うかもしれないいろいろな徴である。しかし普通私はこうしたことをあまり話さないことにしている。それは、そういうことを聞くと、「そういうことが今私に起こっているんだ」というふうに想像してしまうからである。それは起こすのではなく、ただ起こるのである。

――インテグラルヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ

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