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2015年11月23日月曜日

「三十七の菩薩の実践」



13世紀のチベット仏教サキャ派の修行僧であり学僧であるギャルセー・トクメー・サン­­ポが、一見机上の空論で終わってしまいがちな大乗の菩薩行を、実践的に37項目で美­し­く記した作品。

この詞章を、合計100回を目指し、日々唱えるとよいでしょう。

2015年7月1日水曜日

ラーマのラクシュマナへの説法


他者への詐欺行為、抑圧、
苦痛を与える行為を避けなさい。

他者からの批判や迫害に、
不屈の精神を持って耐えなさい。

ひねくれることなくありなさい。

真の師に献身し、
身口意をもって彼に奉仕しなさい。
精神的・肉体的な純潔さを遵守しなさい。

善行の遂行に忠実であれ。
身口意を制御するのだ。 

感覚的対象を
切望してはいけない。
自己主義から
自由になりなさい。 

常に生や老いなどの、
輪廻の苦しみを覚えておきなさい。

息子や妻などに
執着してはならない。
偏った愛情を
彼らに抱いてはならない。

望むもの、望まないものの
経験がやって来ても、平静であれ。

一切の衆生の本質である私、
ラーマに対しての絶え間ない
信仰を持ちなさい。

お前の心を、
真理ではない事柄に
結び付けてはならない。

人ゴミから解放された聖地を頼ってはならない。

世俗的な友に好意を
抱いてはならない。
真我の探究をお前の
唯一の冒険とせよ。

常に心の中で、
明智の真理の言葉について
考えていなさい。

これらの戒の実践は、
本質なる神の叡智、
ジュニャーナへと通じる。

これらが欠如すると、
その結果は正反対のものとなるであろう。

―ラーマのラクシュマナへの説法

「与えること」だけが、心に残るただ一つの思いとなる。



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女性の出家修行者たちはミラレーパに、自分自身の道はどうやったら見つかるのかと尋ね、更なる教えを懇願しました。答えてミラレーパは歌いました。

わがグル、
慈悲者に敬意を払います。

どうか御身の慈悲の波を
お与えください。

願わくば行者の私に、
快く瞑想させたまえ。

あなた方、
新しい世代の子供たちは
欺きに満ちたカルマが
はびこる町に住んでいるが
ダルマの輪はいまだ切れていない。

あなた方はブッダの
教えを聞いたが故に
こうして私のもとへやってきて、
迷いの道を避けたのだ。

常に功徳を積みつづける行によって
帰依の素質が育つ。

やがてそれによって
祝福の波があなた方に入り
類似と真の悟りが育つ。

しかしあなた方が
たとえこれらのすべてを
行なったとしても
完全に習得することがなければ、
ほとんど役には立たない。

あなた方を気の毒に思い
私は今、この教えを授けよう。

よく聴け、若き友たちよ。

ひとりでひっそりと住む時は
町の楽しみを思ってはならない。

さもなくば
悪魔があなたの心に生じるだろう。
心を内に向けよ。

そうすれば、
あなた方は道を見つけよう。

忍耐と決意を持って瞑想するときは
輪廻の邪悪なものや
いつ訪れるかわからない
死を思い浮かべ
世間の楽しみを
渇望しないようにせよ。

そうすれば、
勇気と忍耐が心に芽生え
あなた方は道を見つけよう。

修行の深遠な教えを
懇願するときは学識や、
学者になることを求めてはいけない。

さもなくば、
現世の行為と欲望が力を奮い
そして、この生そのものが浪費される。

謙虚でつつましくありなさい。

そうすれば、
あなた方は道を見つけよう。

瞑想中にさまざまな体験が訪れても
得意になって、それを吹聴してはならない。

さもなければ、
女神や母なる神をかき乱す。

怠惰になることなく瞑想しなさい。

そうすれば、
あなた方は道を見つけよう。

グルに従うときは
グルの長所や欠点を
見ようとしてはいけない。

さもなければ、
欠点の山を見つけてしまうことになる。

信と忠実さによってのみ
あなた方が道を見つけよう。

ダルマの兄弟姉妹と
聖なる集いに出るときは
先に並ぼうと考えてはいけない。

さもなくば
憎しみと渇望を生起させ
戒にそむくだろう。

自己を調和させ、互いに理解し合え
そうすれば、あなた方は道を見つけよう。

村で施し物を乞う時は
偽りや搾取のために、
ダルマを使ってはならない。

さもなくば、
自分自身を低い道に落とすことになる。

正直で誠実でありなさい
そうすれば、あなた方は道を見つけよう。

しかし何にもまして、いつでもどこでも、
決して思いあがったり、
うぬぼれたりしてはならない。

さもなければ
自己を過大評価して、
偽善で押しつぶされてしまうだろう。

欺きと偽りを捨て去れば
あなた方は道を見つけよう。

 道を見つけた人は、恵み深き教えを人々に伝えられる。
 こうして自他を助け、
 「与えること」だけが、心に残るただ一つの思いとなる。

―ミラレーパの十万歌



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2015年6月14日日曜日

志賢心誠、必ず神に通ず―ラーマクリシュナ・パラマハンサ





神には相形がある、と言い張る人もいるし、
いや、実は無形の大実在だ、
という人もいる。

だから、私はいつも言うんだよ。

姿ある神を信じている人は、
そのお姿を想っていなさい、
無形の実在を信じている人は、
その無相の実在なるものを
瞑想すればいい


とね。

私が言いたいのは、
独りよがりはよくない、
と言うことだ。

つまり、自分の宗教は正しいが
他のは、皆まちがっている、
と思うのが良くないのだ。


「私の宗教は正しい。
だが、他の宗教が正しいか
間違っているか、ホンモノかニセモノか、
そういうことは私にはわからない」

――こう思っているのがいい。

神様に直接会ってみなければ、
あのお方の性質は姿はわからないよ。


志賢心誠、必ず神に通ず




熱心に、真心こめて神に祈りさなさい。

そうすれば、
あの御方は必ず聞き届けてくださる。

あの御方はきっと、
あなたの霊的進歩にとてもためになることだ。

またことによると、ある人の口から
「こうすれば神さまがわかりますよ」
と、言わせて下さるだろう。

熱心、ということがすべてだ。

ヒンズー教でもイスラム教でも
キリスト教でも、

ほかのどんな宗教でも、
とにかく熱心になることが何より大切なこと。

――神さまは、私たちの中にいる導き手なんだからね。


よくない道だってかまわない。

真心こめて信仰していれば、
神さま自身が、より良い道、
より高い道につれていってくださる。

神通力のようなものを求めたり、
現世利益のために信仰しているのは
知性の低い人たちだ。

――でも欲ばりな祈りも
熱心につづけているうちに、
いつのまにか無私な清いものとなってくる。

ドゥルヴァは、領土を獲るために、
必死になって苦行していたら、
至福の神を手にいれてしまった。

彼らは言った。

「ガラス玉を探しにいって、黄金に出くわしたとしたら、そのままにしておけるか?」

―ラーマクリシュナパラマハンサ


2015年6月4日木曜日

神を忘れない‐ラーマクリシュナパラマハンサ



ねえラトゥ、"ここ"を絶対忘れちゃ駄目だよ。

 ラトゥは師との約束通り、生涯を通じてシュリー・ラーマクリシュナの真の召使いであり続けた。
 師を忘れて過ごした日は一日もなく、命令を破った日も一日もなかった。――また、師へのご恩を忘れて過ごした瞬間はひと時もなかった。ドッキネッショルでそうだっただけではなく、シュリー・ラーマクリシュナが亡くなった後も、ラトゥは一つの考え、発想、そして目標に徹した。――師に完全に従うため、そして瞬間といえども彼を忘れないために。

 こうして、神を忘れないというラトゥの約束を聞いて、師はラトゥに、神の召使い(ダーシャ)たるものは一瞬たりとも神を忘れてはいけないという感銘を与え、彼はそれを生涯忘れることは決してなかったのだ。



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 師はラトゥに教えた。

「ラトゥよ、聞きなさい。利益や動機というどんな希望にも揺り動かされてはいけないよ。――お前自身を完全に『彼』に差し出しなさい。

 お前が『彼』を手放さなければ、お前はすべてを得るだろう。手放してしまうと、渇望は残る。あるいは増しさえする。そしてお前を翻弄して、不幸にするだろう。」


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人々には愛と奉仕の精神をもって対さなければならない。
教理や教義に執着するのは、餓えた人に石を与えるようなものである。


―ラーマクリシュナパラマハンサ


2015年5月25日月曜日

アシュターヴァクラ・ギーター「気づき」


身体は無
世界は無だ

これを完全に理解するとき
どうしてそれらを想像から生みだしつづけることができよう?
なぜなら、真我は
純粋な気づきに他ならないのだから

身体とその恐れ
天国と地獄、自由と束縛

すべてはただの作り話

気づきそのものである私に
何の関わりがあるというのか?

私は一なるものだけを見る

入ごみに
無人の地に

ならば、いったい何に私が執着するというのか?

私は身体ではなく
身体は私のものではない
私は分割されない気づきそのもの

ただ生きることへの渇望に
縛りつけられていただけ

私は果てしない海
想念が湧きあがると
意識の風が幾千もの世界という波を起こす


だが、風が止むと
商人は船とともに、全世界を巻きぞえにして
私という存在の底知れぬ海の中に沈みゆく

だが、ああ、なんと素晴らしい!

私は計り知れない深淵
すべての生きとし生けるものは
私の中にひとりでに現れ
たがいに戯れあい、衝突しあい
そして消えゆく

ーアシュターヴァクラ・ギーター 気づき

2015年5月9日土曜日

闇など存在しないことを知れ。


宇宙の一切の力は我々のものだ。

私たちは自分の手で自分の目をふさいで、暗いと言って泣いている。

自分の周りには闇など存在しないことを知れ。

両手を開けば、そこはもとからある光に満ちている。

闇は存在せず、弱さも存在しない。

弱いと言って泣くのは愚か者だ。

清らかになれないと言ってなくのは愚か者だ。

―ヴィヴェーカーナンダ


2015年5月4日月曜日

花にちなんで



だれがこの大地を征服するであろうか?
だれが閻魔の世界と神々とともなる
この世界とを征服するであろうか?
わざに巧みな人が花を摘むように、
善く説かれた真理のことばを
摘み集めるのはだれであろうか?

学びにつとめる人こそ、
この大地を征服し、
閻魔の世界と神々とともなる
この世界とを征服するであろう。
わざ巧みな人が花を摘むように、
学びにつとめる人々こそ
善く説かれた真理のことばを摘み取るであろう。

この身は泡沫のごとくであると知り、
かげろうのように
はかない本性のものであると、さとったならば、
悪魔の花の矢を断ち切って、
死王に見られないところへ行くであろう。

花を摘むのに夢中になっている人を
死がさらって行くように、
眠っている村を洪水が押し流していくように、
花を摘むのに夢中になっている人が
未だ望みを果たさないうちに、
死神がかれを征服する。

蜜蜂は(花の)色香を害わずに、
汁をとって、花から飛び去る。
聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。

他人の過失を見るなかれ。
他人のした事としなかった事を見るな。
ただ自分のした事としなかったことだけを見よ。

うるわしく、あでやかに咲く花でも、
香りの無いものがあるように、
善く説かれたことばでも、
それを実行しない人には実りがない。

うず高い花を
集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、
人として生まれまた死ぬべきであるならば、
多くの善いことをなせ。

花の香りは
風に逆らっては進んで行かない。
栴檀(せんだん)もタガラの花も
ジャスミンもみんなそうである。
しかし徳のある人々の香りは、
風に逆らっても進んで行く。
徳のある人はすべての方向に薫る。

タガラ、栴檀の香りは微かであって、
大したことはない。
しかし徳行のある人々の
香りは最上であって、天の神々にもとどく。

徳行を完成し、
つとめはげんで生活し、
正しい智慧によって解脱した人々には、
悪魔も近づくによし無し。

大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の
山堆(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。

塵芥にも似た
盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、
正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は
智慧をもって輝く。

―ダンマパダ


2015年4月21日火曜日

世界とともに

大きな人の流れも、
一人の人が動くところから生まれます。

もしもあなたが、
自分には大したことはできないと思ってしまったら、
隣にいる人も意気をそがれてしまい、
大きなチャンスを逃すことになるでしょう。

反対に
わたしたち一人一人が利他的に動くことによって、
ほかの人を力づけることができるでしょう。

慈悲に溢れた心と気持ちでもって、
世界とともに。

- ダライラマ14世

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