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2012年4月28日土曜日

ラーマーヌジャの教え

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『あなたの精神的指導者を崇めなさい。そして聖者たちを崇めなさい。
過去の偉大な聖者たちの教えに、真摯な信仰を持ちなさい。
決して、感覚の奴隷になってはいけません。
世俗的な知識の収集に満足してはいけません。
神の偉大さと彼の創造物の不可思議についての本を、繰り返し読みなさい。
もし偶然にも、あなたがグルの恩寵によって智慧を輝かせることに成功したならば、感覚の対象に魅力を感じる事は絶えるでしょう。すべての感覚に無関心でいることを学びなさい。
神の御名と栄光を口にするのと同じくらい何度も、神の信者たちの名前と栄光を話すことを喜びなさい。
覚えておきなさい。神の信者に奉仕する者は、素早く神を実現するでしょう。
どんなにあなたが賢くても、神と神の信者への奉仕にあなた自身を捧げることがなければ、あなたは救われないでしょう。
決して、私欲を満たす手段としてヴィシュヌ派教団の生活を考えてはいけません。理想を実現するためだけに努力しなさい。』


『1日のうち少なくとも1時間は、あなたのグルの偉大さを瞑想しなさい。
そして毎日、アルヴァースや他の聖者たちの神聖な書物を読みなさい。
いつも、神に没頭する道を行く仲間といることを求めなさい。そして「救済に導かれる他の道があるよ」という者たちを避けなさい。
汚い金儲けや感覚の楽しみを追及する人々と関わってはいけません。
できる限り神の信者と交わりなさい。
神の神聖な像をただの石だと見る者や、彼ら自身の精神的な指導者を普通の人間と見る者、カーストの高低によって優れた信者たちを見る者、一切の罪を浄化し洗い流すパワーを持ったグルの御足に触れた神聖な水を普通の水と変わりないと言う者、神聖なマントラをただの音の集まりだという者、至高の神々の世界をデーヴァよりも高くないという者は誰でも――苦しみから救うべき者達なのだと見なしなさい。』

ラーマヌージャがこの説法を終えた時、弟子たちは、
「私たちの命がこの体から旅立つまでは、この世でどのように生きていけばいいでしょうか。もう一度お説き下さい」
とラーマヌージャにお願いしました。ラーマーヌジャはこう答えました。

『真に神の御足に自己を投げ出した者は、将来についてどんな思考も向けてはなりません。それは、全面的な彼への自己の明け渡しです
――その繋がりの中では、ほんの少しの心配でもあるならば、それは自己放棄という名の偽善的行為だとあばかれます。
人生のすべては、過去のカルマによって決定されています。――だから、それを嘆き悲しむのは適切ではありません。
あなたの義務の遂行を、現世的な目的を叶えるための手段として考えるべきではありません。それらを至高者への奉仕であると見なさい。』

『シュリーバーシャを研究し、それを他の人に教えなさい。――これが神への最大の奉仕になります。
それが可能でなければ、聖サタクローパとその他の偉大な魂が書いた聖なる書物を勉強しなさい。そして資質のある弟子に教えなさい。
それが可能でなければ、地球上にある数々の聖地で、神への奉仕にあなたの人生を費やしなさい。
そうでなければ、ヤーダヴァードリ(メールコーテー)に粗末な小屋を建て、そこで完全に平穏に暮らしなさい。
または、あなたが背負っているすべての重荷を神に手渡し、ドヴァヤマントラの瞑想に没頭して、今いるところに留まりなさい。
もしこれらの一つも実行することができないなら、智慧と信仰と無執着に満ちた聖者を探しなさい。彼に従い、彼とともに動きなさい。あなたのすべてのエゴを根こそぎ引き抜いて、彼の言葉に忠実に従いなさい。――それがあなたを救う手段なのです。』


この地上にある生命の中で、注意深い選別によって、あなたはあなたの友人と敵と無関心な相手を見分けなさい。聖者はあなたの友人です。神を嫌う人たちはあなたの敵です。現世に執着している人たちには無関心でよろしい。
良質のキンマや花や香りに出合ったときのように、あなたは友人(聖者)を目にすることを喜びなさい。
敵(神を嫌う人)を見たときには、蛇やトラや火などに出くわしたときのように恐れなさい。
無関心な者(現世に執着する人)に出会った時には、切り株や石ころを見たときのように、全く気に掛けなくてよろしい。 
そのような態度が、神に庇護を求めた者の態度です。聖者である友人とのつながりは、あなたの精神に光を与えてくれるでしょう。
敵(神を嫌う人)を避け、無関心でいるべき人(現世に執着する人)たちに関しても、彼らに話しかけないようにしなさい。現世的な利益があなたに増してしまうから、彼らに敬意を払わないようにしなさい。そのような利益は、すぐにあなたを神の敵にしてしまうだろうから。
慈悲に満ちたすべての方々は、あなたが祈るすべての事に応える準備をして、待っていらっしゃるということを覚えておきなさい。決して敵(神を嫌う人)を求めてはいけません。


ラーマーヌジャராமானுஜர்1017年 - 1137年

不断の熱意―スワーミー・シヴァーナンダ


十五年間も瞑想を続けて、何の進歩も見なかった人がいる。それはなぜか。熱心さ、離欲、強い魂の解放への欲求、そして激しい不断の修行がなかったからである。

修行者の間でも、かような不平を聞く。「私は十二年間瞑想してきたのに、何の進歩もない。悟りも開けない。」――なぜか。何が原因なのか。
それは、深い瞑想に没頭して、自分のハートの一番奥まで深めなかったからである。
正しく消化吸収して、神の思いで心を満たさなかったからである。
規則的に修行をおこなわなかったからである。
感覚器官を正しく調御しなかったからである。
心が外に出て行こうとする傾向を完全に抑えて、心を集中しなかったからである。
『今この瞬間に悟るぞ!』という強い決意がなかったからである。
心のすべてを、百パーセント神に向けなかったからである。
途切れのない油の流れのように、神の意識の流れを自分の内に増して行かなかったからである。

何年間か修行した後、進歩しているかどうかチェックしなければならない。十分注意深くしていないと、離欲が薄れ、瞑想の熱意が衰え、退歩する。後戻りする。

いつも神のことを思えば、そのうち必ず神を知る。

――スワーミー・シヴァーナンダ

「実体」は様々の名を持つ一つのもの。

ため池にはいくつかの階段がついている。その中の一つで、ヒンドゥたちは水差しに水をくみ入れてそれをジャルと呼ぶ。他の階段で、マホメット教徒たちは革袋に入れてそれをパーニと呼び、第三の階段ではキリスト教徒たちが汲んでそれをウォーターと呼ぶ。「水はジャルではない。パーニかウォーターである」などと思う事ができるか? 何という不条理なこと!

「実体」は様々の名を持つ一つのもの。そして各人が、その同一の実体を求めているのだよ。
世界中の諸宗教は、それらの階段のようなものである。どの階段でもよい、まじめに、熱意に満ちてまっすぐに降りていけ。必ず、永遠の至福という水に達するであろう。しかし、自分の宗教は他の宗教より良い、と言ってはいけない。

――ラーマクリシュナ・パラマハンサ

2012年4月27日金曜日

人は、主を忘れるからこそ、苦しむのだ。

人は、主を忘れるからこそ、苦しむのだ。
この世の不幸には様々な形がある。しかしそれらの苦しみは、まさにその性質上、永続しない。主を己のものとして受け入れることのできる者は、それほどひどく世俗の悲しみに悩まされることはない。
主をあなた自身の父親あるいは母親と考えるように努めよ。
嘆き悲しむのなら、神の前で嘆き悲しみ
主よ、信仰と献身とをお与えください。そして私にお姿をお見せください
と祈りなさい


――スワーミー・スボダーナンダ

2012年4月26日木曜日

バクティの修練から、熱意が生まれる

「クリシュナへの真の信仰は、宇宙の中で最も稀なものである。
この輪廻の中で、無数の魂が、840万もの生を通り抜けてきた。
その中には、生命体と非生命体がある。
生命体には、鳥、獣、水棲生物など無数の種類がある。その中で、人間に生まれる者は、ごくわずかである。

人間の中でも、野蛮な者や、極度に世俗的な心を持った者が、大部分を占める。
そしてわずかな人々のみが、神を思う。
神を思う者たちの中で、多くの者たちは儀式的な宗教行為に献身し、一部の者だけが叡智に献身する。
そして叡智に献身する百万人の中でも、ほんのわずかな者たちだけが解脱を得、さらに解脱を得た者の中の百万人に一人だけが、クリシュナへの真の信仰を見いだす。
ゆえに、クリシュナの真の信者は、欲望がなく、平静なのである。

他の者たちが、楽、解脱、あるいは霊的な力を切望する一方、クリシュナの信者は完全なる無私の精神で、身体、心、魂を通した心からの『彼』への奉仕のみを欲する。
単に解脱を求める者たちや、自己中心的な達成を望む者たちの心の中には、決してクリシュナへの真の愛は生まれない。

バクティの修練から、熱意が生まれるのだ

その熱意が深まると、それはプレーマと呼ばれる。」

ー「シュリー・チャイタニヤの生涯」より、チャイタニヤがルーパ・ゴースワミーに与えた教え




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