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2014年6月25日水曜日

カーリー讃歌2ーーkali maa !

この世の海に漕ぎだした私の小舟は
大実母よ、今にも沈みそうです!
迷妄の嵐は烈しく 無智の霧はたちこめ
マ-よ、心細さはつのるばかり……
”心”という名の舵取りは下手で
”感情”という名の漕ぎ手は頑固
死にもの狂いに気はあせっても
ただアプアプともがくばかり
”愛情”の舵柄は見るかげもなく壊れ
”自信”の白帆はズタズタに裂け
私の舟はもう転覆してしまいそう
マ-よ、どうしたらいいでしょう!?
なすすべもない今となっては
なりふりかまわずハダカになって
聖なるドルガの御名の筏を(ドルガ=大実母の一名)
しっかりつかんで波間を泳ごう

我執のあるうちは真の自由はない。
我執のあるうちは苦悩は絶えない。
カーリー母さま 玩具を作り
シャーマ母さま 玩具を作り(カーリーの愛称。)
五尺あまりの 玩具のなかで
ゆかいな遊びを してみせる
あなたは玩具の なかにいて
たくみな糸で あやつるが
玩具はそれを 知らないで
自分で動くと 思っている
玩具がそれを 知ったとき
もうそのときは 玩具じゃない
信仰の糸で 母さまの
シャーマをさえも 縛ります




2014年6月23日月曜日

神が喜んで受けて下さるのは

ラーマクリシュナがくりかえし言っていることだが、神は、立派な殿堂や高価な宝石や、莫大な寄付金を供えても喜ばない。そういうもので神の心を動かすことはできない。そんなものは人間にとって貴重かもしれないが、神にとっては土塊と同じ。

神が喜んで受けて下さるのは、信仰心である。それも純粋なほど喜ぶが、はじめのうち(精神が幼いうち)は欲があってもかまわない。熱心に続けていれば次第に清まってくる。だいじなのは形ではない。神を求め、慕い、愛し、恋する心である。

わが心 黒蜂のごとく
シャーマの青き蓮華に魅せられぬ
この世の花 いろ美しく
甘くとも 空し うとまし……
―― 「インドの光 ラーマクリシュナの愛唱歌」より

2014年6月22日日曜日

カーリー讃歌--KALI MAA



ラーマクリシュナは、
宇宙の大原理=根元を、静=不動とみるときブラフマンと称び、
動=変化活動するとみるとき(創造、保存、破壊)、
それを根元造化力(アデャシャクティ)と称ぶ、と説明している。
このアデヤシャクティを神格化したのが、カーリー女神である。
大実母カーリーである(カーリーは″黒″の意)。

2011年10月31日月曜日

Chamunda 母なる神

 Kālīカーリー・マー



神の聖なる御わざの真の道具になろうとするならば、
あなたの第一の目標は、
欲望と自己中心的な自我からの全面的解放でなければならない。

人生全体が至高者への捧げ物となり、生け贄となることが、必要なのだ。

あなたが行為を通して目指すべき事柄はただ一つ、
神の聖なるシャクティご自身が自らの営みを営むときの、その顕現の道具につかえ、
また自らもその顕現の道具となることである。

 あなたは神の聖なる意識を通して自ら成長を遂げて、
ついには、あなたの意志と神のご意思の間にはどんな違いもなく、
もはやあなたの内で働く神ご自身の衝動以外にはどんな動機もなく、
あなたの内で、またあなたを通して働く神ご自身の意識に基づく行為以外には
どんな行為もない、というところまで達することが、必要なのだ。


(「母なる神」より)

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