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愛と慈悲とは―ダライラマ14世「思いやり」
愛と執着という二つの感情は、他者に対する親密な感情をもっているという点で、とても似た性質をもっていますね。そしてもちろん、親密な感情に加えて、相手に対する関心と思いやりも存在しています。それではこの二つの感情の違いは何なのでしょうか?
2014年9月25日木曜日
ラームラーラー
要約・ラーマクリシュナの生涯(16)「ラームラーラーへのヴァーッツァリア・バーヴァ」より
1864年頃、ドッキネッショルに、ジャターダーリーという修行者がやってきた。彼は礼拝の対象として童子ラーマチャンドラの像を持っており、長年にわたって深い愛を込めてこの像に仕えているうちに、彼の心は深いプレーマ(神への至高の愛)の状態に没入した。彼は時々、光り輝く童子ラーマのヴィジョンが瞬間的に現れ、彼を至福で包むのを経験した。そしてさらに修行が進むに連れて、そのヴィジョンはさらに強烈になっていった。そしてついにはそのヴィジョンは一般に外界のものを普通に目で見るのと同じようにハッキリとしたものとなり、また時間的にも長く続くようになった。
このように神への愛に満ちた瞑想状態に常に入りつつ、彼はほとんど絶え間なく、童子ラーマと一緒の世界に暮らしながら、インド国内の様々な聖地を遍歴していた。そしてついにこのドッキネッショルへとやってきたのだった。
このようにジャターダーリーは頻繁に童子ラーマの姿を眼にしていたけれど、そのことを誰にも明かさないでいた。しかしゴダドルは、初対面のときに、ジャターダーリーがそのような境地にあることを見破った。そのためゴダドルはジャターダーリーを尊敬し、彼がラームラーラーへの奉仕に必要とする品々を喜んで提供した。
もともとゴダドルの家の神はラグヴィール(ラーマ)であり、また前述のようにハヌマーンのムードのダーシャ・バーヴァの修行に没頭しているときも、ゴダドルはラーマへの深い愛と信仰の中にあった。そして今、ジャターダーリーと会い、会話を交わすことによって、ゴダドルの中に、主ラーマへの愛と信仰が再び甦った。そしてジャターダーリーが礼拝しているラームラーラーの像の中に、ゴダドルもまた、主ラーマの童子の姿をハッキリと見た。
ゴダドルは以前に家の神ラグヴィールへの礼拝のためのラーマのマントラを授けられていたが、今度は童子ラーマ(ラームラーラー)への母親としての愛の態度のためのマントラをジャターダーリーに授けられ、そのサーダナーに没頭すると、わずか数日間で、童子ラーマの神聖なヴィジョンを常に見るようになった。
ゴダドルの心は、ジャターダーリーが持つその童子ラーマへの母性愛でいっぱいになり、母親が自分の幼子に対して感じるような素晴らしい愛と執着を童子ラーマに感じるようになった(ヴァーッツァリア・バーヴァ)。ゴダドルは時を忘れて、ジャターダーリーの童子ラーマの像のそばにいつもいるようになった。なぜならこの光輝く童子ラーマは、様々な子供らしい愛らしい仕草をして、ゴダドルに他の一切のことを忘れさせるのだった。またこの童子ラーマはいつもゴダドルがいる方向を見つめてゴダドルが来るのを待っており、またゴダドルが来るなと言っても聞かずに、ゴダドルが行くところどこにでもついてきた。
この頃のことについて、後にラーマクリシュナはこう語っている。
1864年頃、ドッキネッショルに、ジャターダーリーという修行者がやってきた。彼は礼拝の対象として童子ラーマチャンドラの像を持っており、長年にわたって深い愛を込めてこの像に仕えているうちに、彼の心は深いプレーマ(神への至高の愛)の状態に没入した。彼は時々、光り輝く童子ラーマのヴィジョンが瞬間的に現れ、彼を至福で包むのを経験した。そしてさらに修行が進むに連れて、そのヴィジョンはさらに強烈になっていった。そしてついにはそのヴィジョンは一般に外界のものを普通に目で見るのと同じようにハッキリとしたものとなり、また時間的にも長く続くようになった。
このように神への愛に満ちた瞑想状態に常に入りつつ、彼はほとんど絶え間なく、童子ラーマと一緒の世界に暮らしながら、インド国内の様々な聖地を遍歴していた。そしてついにこのドッキネッショルへとやってきたのだった。
このようにジャターダーリーは頻繁に童子ラーマの姿を眼にしていたけれど、そのことを誰にも明かさないでいた。しかしゴダドルは、初対面のときに、ジャターダーリーがそのような境地にあることを見破った。そのためゴダドルはジャターダーリーを尊敬し、彼がラームラーラーへの奉仕に必要とする品々を喜んで提供した。
ハヌマーン |
もともとゴダドルの家の神はラグヴィール(ラーマ)であり、また前述のようにハヌマーンのムードのダーシャ・バーヴァの修行に没頭しているときも、ゴダドルはラーマへの深い愛と信仰の中にあった。そして今、ジャターダーリーと会い、会話を交わすことによって、ゴダドルの中に、主ラーマへの愛と信仰が再び甦った。そしてジャターダーリーが礼拝しているラームラーラーの像の中に、ゴダドルもまた、主ラーマの童子の姿をハッキリと見た。
ゴダドルは以前に家の神ラグヴィールへの礼拝のためのラーマのマントラを授けられていたが、今度は童子ラーマ(ラームラーラー)への母親としての愛の態度のためのマントラをジャターダーリーに授けられ、そのサーダナーに没頭すると、わずか数日間で、童子ラーマの神聖なヴィジョンを常に見るようになった。
ゴダドルの心は、ジャターダーリーが持つその童子ラーマへの母性愛でいっぱいになり、母親が自分の幼子に対して感じるような素晴らしい愛と執着を童子ラーマに感じるようになった(ヴァーッツァリア・バーヴァ)。ゴダドルは時を忘れて、ジャターダーリーの童子ラーマの像のそばにいつもいるようになった。なぜならこの光輝く童子ラーマは、様々な子供らしい愛らしい仕草をして、ゴダドルに他の一切のことを忘れさせるのだった。またこの童子ラーマはいつもゴダドルがいる方向を見つめてゴダドルが来るのを待っており、またゴダドルが来るなと言っても聞かずに、ゴダドルが行くところどこにでもついてきた。
この頃のことについて、後にラーマクリシュナはこう語っている。
2014年9月15日月曜日
なぜあなたは私をお作りになったのですか
「それはつまり、一切のものを捨てて神に呼びかけよ、ということだ。彼のみが実在、他のすべては幻である。神の自覚無しには、あらゆるものが無意味である。これが偉大な秘密なのである。」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
熱心に神に祈ることだ。神はまさに我々の身内でいらっしゃる。我々は、彼に『おお神よ、あなたはどのようなお方なのですか。ご自身を私にお示しください。あなたは私にご自分を見せてくださらなければ行けません。そうでなければ、なぜあなたは私をお作りになったのですか』と言うべきなのだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
熱心に神に祈ることだ。神はまさに我々の身内でいらっしゃる。我々は、彼に『おお神よ、あなたはどのようなお方なのですか。ご自身を私にお示しください。あなたは私にご自分を見せてくださらなければ行けません。そうでなければ、なぜあなたは私をお作りになったのですか』と言うべきなのだ。
2014年9月14日日曜日
ありのままの世界
この世界のあらゆるものは、互いに依存しあって存在している。何ひとつとしてそれだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定した実体をもつものなど、一つもないのである。
ところが、私たちは言葉を使ってこの現象の世界に名前をあたえようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界にあらわれている、ありのままの差異をとらえようとする根源的智慧の働きのあらわれであると考えることができる。
しかし、いったん名前があたえられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体をもっているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくとも、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。
ところが、私たちは言葉を使ってこの現象の世界に名前をあたえようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界にあらわれている、ありのままの差異をとらえようとする根源的智慧の働きのあらわれであると考えることができる。
しかし、いったん名前があたえられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体をもっているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくとも、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。
2014年9月9日火曜日
純粋真我(シュッダアートマ)
(問) 神は言葉と心を超越したもの――つまり、心で感得することもできないのではないでしょうか?
いや。――この普通の心で感得できないのはたしかだ。しかし、純粋な心で感得できる。普通の知性ではわからないが、純粋な知性でわかる。
女と金への執着がとれさえすれば、心と知性が清浄になる。
純粋な心と、純粋な知性とは同じものだよ。
神は純粋清浄な心でとらえられるものだ。
いや。――この普通の心で感得できないのはたしかだ。しかし、純粋な心で感得できる。普通の知性ではわからないが、純粋な知性でわかる。
女と金への執着がとれさえすれば、心と知性が清浄になる。
純粋な心と、純粋な知性とは同じものだよ。
神は純粋清浄な心でとらえられるものだ。
2014年9月1日月曜日
2014年8月17日日曜日
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2014年8月2日土曜日
2014年7月27日日曜日
スワミ・プレーマーナンダの教え
◎ある僧への手紙
一般の人々から援助を受けない限り、どうしてあなたが「ホーム・オブ・サービス(奉仕の家)」を運営できるだろうか? もちろん、人々に援助を求めてもよい。
だが、一人の人間の援助に完全に頼りきるのはよくない。
名誉と称賛への欲望を、主にすべて明け渡しなさい。
たとえあなたの道に多少の名誉や称賛がやってきたとしても、それがあなたを害することはないだろう。
主の信者たちは、自由な時を生きている。
英雄のように振る舞いたまえ。――主の御力の中で強くなりなさい。
もしいくらかの弱さが生じたら、人けのないところで主に祈りなさい。
彼は強さと正しい理解をあなたにお与えになり、彼ご自身のもとへあなたを導いてくださるだろう。
どんな仕事をやり始める前にも、主を思いなさい。そして、彼を拠り所とし、ただの道具としてそれをやるように試みるのだ。
主のみが完全な行為者であると、いつも心に留めておきなさい。主におまかせするならば、悪が生じることは決してないのだ。
わたしもまた、シュリー・ラーマクリシュナの恩寵を通じて、あなたが礼拝として、また彼を喜ばせるためだけにすべての仕事を遂行できるように、あなたを祝福する。
主の御意思のみが為される。
しかし、ごく平凡な一個人が、どのようにして彼の御意思を知り、理解することができるのだろうか?
彼を思い続けることが、人間の一つの義務なのだ。
幸福と苦しみ――すべてを彼におまかせするのだよ。
わたしたちはどんな状況のもとでも満足していなければならない。
わたしたちは彼のものであるのだから、彼がわたしたちに望まれるように、彼におまかせしなさい。
この世が利己主義に満ちているというのは、わかりきったことである。
しかしそうはいっても、人間はこの世で生き続けなければならないのだから、世間の人たちは利己主義だといつまでも考え続けることは虚しいことだ。
人は深い熟考と吟味を通してこの事実の真理を十分に理解した後で、仕事に就くべきである。
―――――――――――――――――――――――――
◎利己主義
一般の人々から援助を受けない限り、どうしてあなたが「ホーム・オブ・サービス(奉仕の家)」を運営できるだろうか? もちろん、人々に援助を求めてもよい。
だが、一人の人間の援助に完全に頼りきるのはよくない。
名誉と称賛への欲望を、主にすべて明け渡しなさい。
たとえあなたの道に多少の名誉や称賛がやってきたとしても、それがあなたを害することはないだろう。
主の信者たちは、自由な時を生きている。
英雄のように振る舞いたまえ。――主の御力の中で強くなりなさい。
もしいくらかの弱さが生じたら、人けのないところで主に祈りなさい。
彼は強さと正しい理解をあなたにお与えになり、彼ご自身のもとへあなたを導いてくださるだろう。
どんな仕事をやり始める前にも、主を思いなさい。そして、彼を拠り所とし、ただの道具としてそれをやるように試みるのだ。
主のみが完全な行為者であると、いつも心に留めておきなさい。主におまかせするならば、悪が生じることは決してないのだ。
わたしもまた、シュリー・ラーマクリシュナの恩寵を通じて、あなたが礼拝として、また彼を喜ばせるためだけにすべての仕事を遂行できるように、あなたを祝福する。
主の御意思のみが為される。
しかし、ごく平凡な一個人が、どのようにして彼の御意思を知り、理解することができるのだろうか?
彼を思い続けることが、人間の一つの義務なのだ。
幸福と苦しみ――すべてを彼におまかせするのだよ。
わたしたちはどんな状況のもとでも満足していなければならない。
わたしたちは彼のものであるのだから、彼がわたしたちに望まれるように、彼におまかせしなさい。
この世が利己主義に満ちているというのは、わかりきったことである。
しかしそうはいっても、人間はこの世で生き続けなければならないのだから、世間の人たちは利己主義だといつまでも考え続けることは虚しいことだ。
人は深い熟考と吟味を通してこの事実の真理を十分に理解した後で、仕事に就くべきである。
―――――――――――――――――――――――――
◎利己主義
2014年7月20日日曜日
思い出して
「法の道はまことにきびしい。欲望が一つでもあると至聖にとどくことはできない。針に糸を通すのに、一つでもケバがあったらだめだ。ギーターのなかで、クリシュナ神がアルジュナにおっしゃっている――わたし(神)のところに来ようと思ったら、八大神通力の一つでも持っていてはだめだ、と。
どうしてか、わかるかね? 神通力などを持っていると、人間は必ず高慢になる。高慢、増上慢、これが神を忘れさせるのだ。超自然能力とか霊能力とか、ああいうものにとらわれていたら、迷妄から脱けることはできない。我執が深まるばかりだ」
――ラーマクリシュナ
思い出して
心の中のあのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナの笛の音が
正しく生きなさいと 歌っているよ
僕がついているからと ほほえんでるよ
花咲き乱る あのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナが美しい
孔雀の羽 揺らして 遊んでいるよ
鈴の音 響かせて 踊っているよ
心の中のあのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナが麗しい
早く思い出してと 叫んでいるよ
一緒に遊んでいた 至福の日々を
顔を上げれば あの空いっぱいに
今日もクリシュナが愛おしい
誰も憎まないでと 叫んでいるよ
すべては僕なんだよと ほほえんでるよ
耳を澄ませば あのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナの笛の音が
正しく生きなさいと 歌っているよ
僕を思い出してと ほほえんでるよ
どうしてか、わかるかね? 神通力などを持っていると、人間は必ず高慢になる。高慢、増上慢、これが神を忘れさせるのだ。超自然能力とか霊能力とか、ああいうものにとらわれていたら、迷妄から脱けることはできない。我執が深まるばかりだ」
――ラーマクリシュナ
思い出して
心の中のあのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナの笛の音が
正しく生きなさいと 歌っているよ
僕がついているからと ほほえんでるよ
花咲き乱る あのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナが美しい
孔雀の羽 揺らして 遊んでいるよ
鈴の音 響かせて 踊っているよ
心の中のあのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナが麗しい
早く思い出してと 叫んでいるよ
一緒に遊んでいた 至福の日々を
顔を上げれば あの空いっぱいに
今日もクリシュナが愛おしい
誰も憎まないでと 叫んでいるよ
すべては僕なんだよと ほほえんでるよ
耳を澄ませば あのヴリンダーヴァンで
今日もクリシュナの笛の音が
正しく生きなさいと 歌っているよ
僕を思い出してと ほほえんでるよ
2014年7月19日土曜日
慈しみ
有能であり、心が真っ直ぐであり、
正しく、言葉優しく、柔和であって、
思い上がらない者でなければならない。
足る事を知り、僅かな物を食べ、
雑務が少なく、生活も簡素であり、
諸々の感官が静まり、聡明であって、
昂ぶることなく、他人の家で貪らない。
他の識者の非難を受けるような、
下劣なことを、行ってはならない。
すべての、生きとし、生けるものは、
幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
どんな生物生類であれ、
弱いものも、強いものも、
長いものも、短いものでも、
微細なものも、粗大なものも、
見えるものも、見えないものも、
遠くに住む者も、近くに住む者も、
生まれたものも、生まれるものでも、
一切の生きとし生けるものに、幸あれ。
何人も、他人を欺いてはならない。
いつも、他人を軽んじてはならない。
相手を悩まそうと、怒りの想念を抱き、
苦痛を与えることを、望んではならない。
さながら、己が独り児を、
母が、命を賭けて守るよう、
一切の生きとし生けるものに、
無量の慈しみの心を起こすべし。
上に、下に、横に、障害なく、
恨むことなく、憎むこともなく、
全世界に、慈無量心を起こすべし。
立ちながらも、歩きながらも、
座りながらも、臥しながらでも、
眠らない限りは、慈無量心を持て。
これは、慈悲喜捨、梵住と呼ばれる。
邪見を捨て、戒律を守り、智慧を具え、
諸々の欲に関する、貪欲を除いたものは、
決して、再び母胎に宿ることがないだろう。
――スッタニパータ 第一章 八
正しく、言葉優しく、柔和であって、
思い上がらない者でなければならない。
足る事を知り、僅かな物を食べ、
雑務が少なく、生活も簡素であり、
諸々の感官が静まり、聡明であって、
昂ぶることなく、他人の家で貪らない。
他の識者の非難を受けるような、
下劣なことを、行ってはならない。
すべての、生きとし、生けるものは、
幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
どんな生物生類であれ、
弱いものも、強いものも、
長いものも、短いものでも、
微細なものも、粗大なものも、
見えるものも、見えないものも、
遠くに住む者も、近くに住む者も、
生まれたものも、生まれるものでも、
一切の生きとし生けるものに、幸あれ。
何人も、他人を欺いてはならない。
いつも、他人を軽んじてはならない。
相手を悩まそうと、怒りの想念を抱き、
苦痛を与えることを、望んではならない。
さながら、己が独り児を、
母が、命を賭けて守るよう、
一切の生きとし生けるものに、
無量の慈しみの心を起こすべし。
上に、下に、横に、障害なく、
恨むことなく、憎むこともなく、
全世界に、慈無量心を起こすべし。
立ちながらも、歩きながらも、
座りながらも、臥しながらでも、
眠らない限りは、慈無量心を持て。
これは、慈悲喜捨、梵住と呼ばれる。
邪見を捨て、戒律を守り、智慧を具え、
諸々の欲に関する、貪欲を除いたものは、
決して、再び母胎に宿ることがないだろう。
――スッタニパータ 第一章 八
鼓舞する言葉
人間に生まれるという、稀なる特典を得ても、
今生で神を悟れなければ、生まれた意味がない。
――ラーマクリシュナ・パラマハンサ
―――――――――――――――――
「すべてを受け入れることが成長の印です。」
――ヴィヴェーカーナンダ
―――――――――――――――――
「自分で自分を尊敬できないものを他人が尊敬してくれますか?
たとえ死ぬ運命にあろうとも……
私は勇者のように、最高に気高く死にましょう!」
―インドラジット(メーガナーダ)
今生で神を悟れなければ、生まれた意味がない。
――ラーマクリシュナ・パラマハンサ
―――――――――――――――――
「すべてを受け入れることが成長の印です。」
――ヴィヴェーカーナンダ
―――――――――――――――――
「自分で自分を尊敬できないものを他人が尊敬してくれますか?
たとえ死ぬ運命にあろうとも……
私は勇者のように、最高に気高く死にましょう!」
―インドラジット(メーガナーダ)
インドラジット―実写ドラマ・ラーマーヤナ 第88話 |
瞑想の徴
自分が本当に瞑想していることがわかるのは、いつか? それを知るための目安がある。
たとえば四時半に座って瞑想を始めるとする。そして瞑想に一時間を当てておくとする。そして、五時半にベルが鳴る。そのときもし、「え? こんなに早くベルを鳴らすのは誰だ? 座ってからまだ五分じゃないか」と感じたら、それは瞑想だったと言ってもよい。ところが五分間を一時間に感じたら、それは瞑想ではない、それはまだ集中していたのだ。瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。だから、突然瞑想が破られたら、あなたは、「私の身体に何が起きたのだろう?」と不思議に思うだろう。真の瞑想では、身体さえも忘れ去られる。あなたは時間と空間を超える、つまりあなたは身体を脱け出す――。”身体を脱け出す”と言っても、空中を浮遊するというような意味ではない。心が身体意識を超えるという意味である。
その点で瞑想は睡眠に似ている。睡眠中は、身体があるということがわからない。それは確かにそれに気づかないのだ。睡眠が本当に深いときには、誰かがあなたの身体を別の場所へ移動させても、そのことにすら気づかない。そして眼が醒めたとき、「私はソファで寝ていたはずだが……誰が私をベッドに運んだのだろう?」と言う。
瞑想である徴は、他にもまだある。初めのうち、身体を超えるとき、たいへん軽く感じる。またもちろん、瞑想の対象と関係したすばらしいヴィジョンを得ることもある。ときには、関係はなくとも、非常にすばらしく、高揚的なヴィジョンであることもある。またときにはヴィジョンではなく、単に美しい光であったりする――たとえば美しい月光を浴びているように思われたりするだろう。あるいは海鳴りとか、鐘の音とか、美しいフルートの音色とかいうような、音であるかもしれない。これらはすべて、出遭うかもしれないいろいろな徴である。しかし普通私はこうしたことをあまり話さないことにしている。それは、そういうことを聞くと、「そういうことが今私に起こっているんだ」というふうに想像してしまうからである。それは起こすのではなく、ただ起こるのである。
――インテグラルヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ
たとえば四時半に座って瞑想を始めるとする。そして瞑想に一時間を当てておくとする。そして、五時半にベルが鳴る。そのときもし、「え? こんなに早くベルを鳴らすのは誰だ? 座ってからまだ五分じゃないか」と感じたら、それは瞑想だったと言ってもよい。ところが五分間を一時間に感じたら、それは瞑想ではない、それはまだ集中していたのだ。瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。だから、突然瞑想が破られたら、あなたは、「私の身体に何が起きたのだろう?」と不思議に思うだろう。真の瞑想では、身体さえも忘れ去られる。あなたは時間と空間を超える、つまりあなたは身体を脱け出す――。”身体を脱け出す”と言っても、空中を浮遊するというような意味ではない。心が身体意識を超えるという意味である。
その点で瞑想は睡眠に似ている。睡眠中は、身体があるということがわからない。それは確かにそれに気づかないのだ。睡眠が本当に深いときには、誰かがあなたの身体を別の場所へ移動させても、そのことにすら気づかない。そして眼が醒めたとき、「私はソファで寝ていたはずだが……誰が私をベッドに運んだのだろう?」と言う。
瞑想である徴は、他にもまだある。初めのうち、身体を超えるとき、たいへん軽く感じる。またもちろん、瞑想の対象と関係したすばらしいヴィジョンを得ることもある。ときには、関係はなくとも、非常にすばらしく、高揚的なヴィジョンであることもある。またときにはヴィジョンではなく、単に美しい光であったりする――たとえば美しい月光を浴びているように思われたりするだろう。あるいは海鳴りとか、鐘の音とか、美しいフルートの音色とかいうような、音であるかもしれない。これらはすべて、出遭うかもしれないいろいろな徴である。しかし普通私はこうしたことをあまり話さないことにしている。それは、そういうことを聞くと、「そういうことが今私に起こっているんだ」というふうに想像してしまうからである。それは起こすのではなく、ただ起こるのである。
――インテグラルヨーガ パタンジャリのヨーガスートラ
2014年7月15日火曜日
どうのような忍耐、どれほどの熱意
”大いなる真剣をもって”――。それは、注意力のすべてと心のすべてを注いで、必ず成功してみせるという固い信念をもって、という意味である。世俗の事柄や、人聞を獲得しようとするときでさえ、人は夜も昼もそれに励む。眠るのを忘れ、食べることも忘れて、精魂を傾ける。世俗的な事柄を達成しようとするときにさえこの条件が必要なら、ヨーガの成功にはいったいどれほどのものが必要だろう? そうだ、今日播いた種がどれぐらい根を張ったか知りたくて、翌日にはそれを掘り返してみるというような、子供じみた真似はやめよう。われわれにはこれらの三つの資質、すなわち忍耐と献身と信念が必要である。
ここへ来るといつも私は、ヒンドゥーの聖典に出てくる小話を思い出す――
天人の住むデーヴァ・ローカすなわち天界に、ナーラダと呼ばれる大仙人がいる。(偉大なヨーギーというものは、ちょうどこの地上にもいるように、神々の世界にもいるのである。)このナーラダというのは、あらゆる世界を経巡っている仙人で、ときにはわれわれ人聞がどんなふうに暮らしているかを見るために、この地上にもやって来る。
ある日彼が森の中を通りかかると、あまりにも長い間膜想していたために、全身がびっしり蛾塚で覆われてしまったヨーギーに出会った。そのヨーギーがナーラダを見て言った、
narada |
2014年7月13日日曜日
2014年7月4日金曜日
2014年6月25日水曜日
カーリー讃歌2ーーkali maa !
この世の海に漕ぎだした私の小舟は
大実母よ、今にも沈みそうです!
迷妄の嵐は烈しく 無智の霧はたちこめ
マ-よ、心細さはつのるばかり……
”心”という名の舵取りは下手で
”感情”という名の漕ぎ手は頑固
死にもの狂いに気はあせっても
ただアプアプともがくばかり
”愛情”の舵柄は見るかげもなく壊れ
”自信”の白帆はズタズタに裂け
私の舟はもう転覆してしまいそう
マ-よ、どうしたらいいでしょう!?
なすすべもない今となっては
なりふりかまわずハダカになって
聖なるドルガの御名の筏を(ドルガ=大実母の一名)
しっかりつかんで波間を泳ごう
我執のあるうちは真の自由はない。
我執のあるうちは苦悩は絶えない。
カーリー母さま 玩具を作り
シャーマ母さま 玩具を作り(カーリーの愛称。)
五尺あまりの 玩具のなかで
ゆかいな遊びを してみせる
あなたは玩具の なかにいて
たくみな糸で あやつるが
玩具はそれを 知らないで
自分で動くと 思っている
玩具がそれを 知ったとき
もうそのときは 玩具じゃない
信仰の糸で 母さまの
シャーマをさえも 縛ります
2014年6月23日月曜日
神が喜んで受けて下さるのは
神が喜んで受けて下さるのは、信仰心である。それも純粋なほど喜ぶが、はじめのうち(精神が幼いうち)は欲があってもかまわない。熱心に続けていれば次第に清まってくる。だいじなのは形ではない。神を求め、慕い、愛し、恋する心である。
わが心 黒蜂のごとく
シャーマの青き蓮華に魅せられぬ
この世の花 いろ美しく
甘くとも 空し うとまし……
2014年6月22日日曜日
2014年6月14日土曜日
【おすすめの本】聖者の生涯 第二巻 その①ヴィヴェーカーナンダ
↑聖者の生涯 第二巻。 (この本は電子化してみました) |
「ナーグマサハーシャヤの生涯を読んで感動したんですよー!」
と教えてくれました。「味覚に囚われるのなくすために、自分も米ぬかを食べようと思ったんですよー」と。それで私も彼らしい感動ぶりに影響を受けて、久しぶりに本を読み返してみたら、とても感動してしまいました。
この感動を忘れないうちに書いておきます。
2014年6月10日火曜日
サーダナーの果実を味わうには
ナーグ・マハーシャヤ |
「サーダナー(成就法)の方法に関して言えば、必要な唯一のことは、果実の木の下で常に用心深く、寝ずの番をしている人のように、いつも精神を完全に目覚めさせておくことです。
人間は、神が無限の思寵を通してそれを許す場合に限リ、彼のサーダナーの果実を味わうことができるのです。
さらに付け加えれば、明らかに、われわれの側からの激しい働きかけがなくても、主の圧倒的な恩寵が与えられる事があリます。それはたとえば睡眠中に、主が天上から、サーダナーの果実を彼らの上に滴リ落とすようにあらわれるのです。彼らは目覚めて、自分自身と世界の大いなる驚異が与えられたことを理解するのです。このような場合には、いかなるストレスもサーダナーの苦労も経験しません。このような人々はクリパーシッダとして知られています。
2014年6月7日土曜日
【おすすめの本】Bhakti Yoga バクティヨーガ
↑バクティヨーガの本 |
【本の概要】
今回ご紹介するのは、バクティヨーガのみを説いた本、その名も「バクティヨーガ」です。
いまだかつて日本において、バクティヨーガのみを説いた本はあったでしょうか。翻訳されているバカヴァットギーターは、バクティヨーガを包含していますが、それのみを説いている本は、私の知る限りはありません。
【本の中身抜粋】
2014年6月5日木曜日
【おすすめの本】ロンチェンパー安らぎを見つけるための三部作ー心・瞑想・驚くべきこと
↑ロンチェンパの『安らぎを見つけるための三部作』 |
【本の概要】
今日ご紹介するのは、チベットの聖者ロンチェンパの本です。
ロンチェンパはチベット仏教ではとても有名な聖者で、経典が欧米から広まったようですが日本ではまだまだ経典が多くは出回っていません。しかしこの本は、海外から本を取り寄せて、わかりやすく日本語にアレンジした本となっていて、とても貴重な本です。(オリジナルな本なので本屋さんでは販売されていません。)
ロンチェンパはチベット仏教ではとても有名な聖者で、経典が欧米から広まったようですが日本ではまだまだ経典が多くは出回っていません。しかしこの本は、海外から本を取り寄せて、わかりやすく日本語にアレンジした本となっていて、とても貴重な本です。(オリジナルな本なので本屋さんでは販売されていません。)
2014年5月31日土曜日
raghupati raghava raja ram
1919年2月3日(月)PM4:30 モルトン・スクールにて
「信仰歌は心を神へといざなう。ヨーギーたちは心を神に集中し続けるのだ。人は少しばかり『彼』への愛を開発すると、その至福の中に漂うだろう。
だから、ヨーギーは心を他の対象にさまよわせてはならないのだよ。心を神に向け、彼を愛するように努めなさい。家族を愛し、ずっと彼らに集中したとて、あなたは何を得るというのかね? いつか彼らは皆死ぬ。彼らを失うときには、あなたはその悲しみで苦しむだろう。私の友人の1人はナルマダ河の岸に小屋を建て、人生最後の13年間はそこでラーマの御名を唱えて、神を悟るよう懸命に努力していた。」
「信仰歌は心を神へといざなう。ヨーギーたちは心を神に集中し続けるのだ。人は少しばかり『彼』への愛を開発すると、その至福の中に漂うだろう。
だから、ヨーギーは心を他の対象にさまよわせてはならないのだよ。心を神に向け、彼を愛するように努めなさい。家族を愛し、ずっと彼らに集中したとて、あなたは何を得るというのかね? いつか彼らは皆死ぬ。彼らを失うときには、あなたはその悲しみで苦しむだろう。私の友人の1人はナルマダ河の岸に小屋を建て、人生最後の13年間はそこでラーマの御名を唱えて、神を悟るよう懸命に努力していた。」
2014年5月25日日曜日
インドの聖典・ラーマーヤナから学ぶ義を貫くクンバカルナ
何度もみてしまう、ラーマーヤナ、クンバカルナの章。
クンバカルナは悪魔族の王ラーヴァナの弟。
たとえ死ぬ運命なのがわかっていても義を貫く。
弟ヴィビーシャナのダルマ。
クンバカルナの義。
クンバカルナは悪魔族の王ラーヴァナの弟。
たとえ死ぬ運命なのがわかっていても義を貫く。
弟ヴィビーシャナのダルマ。
クンバカルナの義。
2014年5月22日木曜日
2014年5月18日日曜日
ハヌマーンの物語
ハヌマーンってご存知ですか?一度はインドの神様の絵をご覧になったことがあるかと思いますが、今日はハヌマーンのお話を紹介したいと思います。
ハヌマーン(हनुमान् Hanumān)は、シヴァ神の11番目の化身で、ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』に出てくる猿の勇者です。
孫悟空のモデルにもなったといわれる、インドではとても人気のある神様なのですね。
『ラーマーヤナ』では地球に蔓延った悪を消滅させるために、至高者ヴィシュヌ神が「ラーマ」として地球に降誕し、悪を消滅させるお話ですが、シヴァ神もこの計画の遂行に、ハヌマーンとして『化身』を風神ヴァーユの力を借りて、猿の王の妃の子宮に運ばせ、地球に誕生させました。
「ラーマ」に帰依し、この神の計画を勇敢に遂行していく姿は、私たち人間が本来あるべき神に対する信や、数々の困難を乗り越えていく勇気を与えてくれています。
おそらく日本では、その詳細な物語は知るのが困難だったと思われますが、この素晴らしいお話を、日本語字幕つきで知ることができますので、ご興味あるかたは、是非ご覧ください。
(第一話)
あらすじ:地球に蔓延った悪のせいで、地球は悲鳴をあげていた。神々はヴィシュヌ神に地球を救ってくれるように懇願しにいく。そして地球を救うために降誕をする約束をした。シヴァ神はこの大いなる神の計画に、ハヌマーンを誕生させる――)
ハヌマーン |
ハヌマーン(हनुमान् Hanumān)は、シヴァ神の11番目の化身で、ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』に出てくる猿の勇者です。
孫悟空のモデルにもなったといわれる、インドではとても人気のある神様なのですね。
『ラーマーヤナ』では地球に蔓延った悪を消滅させるために、至高者ヴィシュヌ神が「ラーマ」として地球に降誕し、悪を消滅させるお話ですが、シヴァ神もこの計画の遂行に、ハヌマーンとして『化身』を風神ヴァーユの力を借りて、猿の王の妃の子宮に運ばせ、地球に誕生させました。
「ラーマ」に帰依し、この神の計画を勇敢に遂行していく姿は、私たち人間が本来あるべき神に対する信や、数々の困難を乗り越えていく勇気を与えてくれています。
おそらく日本では、その詳細な物語は知るのが困難だったと思われますが、この素晴らしいお話を、日本語字幕つきで知ることができますので、ご興味あるかたは、是非ご覧ください。
(第一話)
あらすじ:地球に蔓延った悪のせいで、地球は悲鳴をあげていた。神々はヴィシュヌ神に地球を救ってくれるように懇願しにいく。そして地球を救うために降誕をする約束をした。シヴァ神はこの大いなる神の計画に、ハヌマーンを誕生させる――)
2014年5月14日水曜日
真理の言葉 ダンマパダ 第二三章 象
第二三章 象
戦揚の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。
馴らされた象は、戦揚にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大事おのれきな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
何となれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎みある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて狂暴になっているときには、いかんとも制し難い。捕えられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。
大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。
この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、――象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。――泥沼に落ちこんだ象のように。
もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。
事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確率していることは楽しい。明らかな知惑を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
戦揚の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。
馴らされた象は、戦揚にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大事おのれきな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
何となれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎みある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて狂暴になっているときには、いかんとも制し難い。捕えられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。
大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。
この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、――象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。――泥沼に落ちこんだ象のように。
もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。
事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確率していることは楽しい。明らかな知惑を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
真理の言葉 ダンマパダ 第十九章 道を実践する人
【第十九章 道を実践する人】
256 、 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 、 多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、___かれこそ<賢者>と呼ばれる。
259 、 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人___かれこそ道を実践している人である。
260 、 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
261 、誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
262 、 嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。
263 、これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。
264 、頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?
265 、大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
266 、 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。
267 、この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
268 、269 、 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。
270 、生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。
271 、272 、 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
真理の言葉 ダンマパダ 第十九章 道を実践する人
256 、 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 、 多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、___かれこそ<賢者>と呼ばれる。
259 、 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人___かれこそ道を実践している人である。
260 、 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
261 、誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
262 、 嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。
263 、これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、___かれこそ「端正な人」とよばれる。
264 、頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?
265 、大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
266 、 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。
267 、この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
268 、269 、 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。
270 、生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。
271 、272 、 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
真理の言葉 ダンマパダ 第十九章 道を実践する人
2014年3月27日木曜日
Mere Guru Dev
Mere Gurudev, charanon par sumana shraddha ke arpita hai
(我がグルよ、あなたの御足に、私の浄信の花々を捧げます。)
Tere hee dena hai jo hai. Wahi tujha ko samarapita hai
(わたしのすべては、あなたがお授けくださったものです。)
My Gurudev I offer these flowers of my faith at your feet
Whatever I have, you have given to me, and I dedicate it all to you.
Na priti hai pratiti hai,
(私には愛もなく、あなたのことも理解していません。)
na hi puja ki shakti hai
(あなたを礼拝する強さですら持っていません。)
Meraa yaha man, meraa yaha tan, meraa kan kan samarapita hai
(しかし、この私の身口意、私の細胞すべてに至るまで、すべてをあなたに捧げます。)
I have no love, nor do I know you.
I don’t even have the strength to worship you,
But this mind of mine, this body of mine,
my every atom is dedicated to you.
Tuma hee ho bhaava men mere,
(あなたは私の心に住まわれし唯一の御方)
vicharon mein, pukaron mein.
(私はあなただけを思い、あなただけに呼びかけるのです。)
Banaale yantra ab mujhko
(私をあなたの道具にしてください。)
mere saravatra samarapita hai
(私のすべてをあなたに捧げます。)
You are the only one in my heart and my thoughts.
You are the one who I call out to.
Now Make me your instrument…all I am I offer to you
このニンニクの臭いは消えるものでしょうか
シュリ・ラーマクリシュナはドッキネッショルに帰ろうとなさった。彼はかつてある信者に、ギリシュについてこうおっしゃったことがあった、
「ニンニクの汁を入れた器は千回洗っても臭いをとることはできない」ギリシュはこの言葉に腹を立てた。師が帰ろうとなさったとき、ギリシュは言った。
ギリシュ「このニンニクの臭いは消えるものでしょうか。」
師「そうだ、消える。」
ギリシュ「消える、とおっしゃるのでございますね。」
師「燃える火がつけられるとすべての臭いは消える。それは新しい器になるのだ。自分は成功しない、と言っている人間は決して成功しない。自分は解放されている、と感じている人はほんとうに解放されている。束縛されていると感じている人は、まさに束縛されたままで、いる。『私は自由だ』と力強く言う人は確実に自由だ。昼も夜も『私は来縛されている』と言っている人は確実に束縛されている。」
「ニンニクの汁を入れた器は千回洗っても臭いをとることはできない」ギリシュはこの言葉に腹を立てた。師が帰ろうとなさったとき、ギリシュは言った。
ギリシュ「このニンニクの臭いは消えるものでしょうか。」
師「そうだ、消える。」
ギリシュ「消える、とおっしゃるのでございますね。」
師「燃える火がつけられるとすべての臭いは消える。それは新しい器になるのだ。自分は成功しない、と言っている人間は決して成功しない。自分は解放されている、と感じている人はほんとうに解放されている。束縛されていると感じている人は、まさに束縛されたままで、いる。『私は自由だ』と力強く言う人は確実に自由だ。昼も夜も『私は来縛されている』と言っている人は確実に束縛されている。」
ラーマクリシュナ
2014年3月14日金曜日
集中と熟考
ああ、信仰心厚き天女よ、おまえたちがダルマを修めようと考えるなら、集中と熟考をおこなうべきである。
外界の出来事を放棄することは、おまえたちの飾り。
ああ、外的世界のとらわれからの救済を、心にとめておくがよい。
沈着と注意深さによって、平穏にあらねばならぬ。
栄光とは、心と言葉が同じであること。
栄光とは、多くの行為の放棄。
おまえたちの心を乱す、不愉快な状況に会うならば、自らを見張って油断せず、己を諭せ。
「怒りの危険はすぐそこにやってきている」と。
心を動かす富と遭遇するとき、自らを見張って油断せず、「愛著の危険がやってくる」と、自らを統御しなさい。
感情を害する、無礼な言葉を耳にすることがあれば、自らを見張って油断せず、己に気づかせよ。
「不快な響きは幻聴に過ぎぬ」と。
仲間と交際するときは、己を注意深く見張って、自らに諭せよ。
「嫉妬心を心に起こさせるな」と。
奉仕や布施に精進するときは、用心して己に諭せよ。
「心せよ、うぬぼれが心の内に生じないように」と。
常に、あらゆる方法で、自らを見張り、常に、内在する邪悪な思いに打ち勝とうとつとめよ。
日常の行為の中で、いかなるものに遭遇しようとも、空と幻という本性について熟考しなければならぬ。
ここに幾百人の聖者や学者が集おうともこれ以上のことを語ることはできないであろう。
あなた方、皆に幸福と繁栄がありますように。
あなた方、皆の心が喜びに満ちて、ダルマの修行に精進できますように。
―ミラレパ「ミラレーパと鳩」より
外界の出来事を放棄することは、おまえたちの飾り。
ああ、外的世界のとらわれからの救済を、心にとめておくがよい。
沈着と注意深さによって、平穏にあらねばならぬ。
栄光とは、心と言葉が同じであること。
栄光とは、多くの行為の放棄。
おまえたちの心を乱す、不愉快な状況に会うならば、自らを見張って油断せず、己を諭せ。
「怒りの危険はすぐそこにやってきている」と。
心を動かす富と遭遇するとき、自らを見張って油断せず、「愛著の危険がやってくる」と、自らを統御しなさい。
感情を害する、無礼な言葉を耳にすることがあれば、自らを見張って油断せず、己に気づかせよ。
「不快な響きは幻聴に過ぎぬ」と。
仲間と交際するときは、己を注意深く見張って、自らに諭せよ。
「嫉妬心を心に起こさせるな」と。
奉仕や布施に精進するときは、用心して己に諭せよ。
「心せよ、うぬぼれが心の内に生じないように」と。
常に、あらゆる方法で、自らを見張り、常に、内在する邪悪な思いに打ち勝とうとつとめよ。
日常の行為の中で、いかなるものに遭遇しようとも、空と幻という本性について熟考しなければならぬ。
ここに幾百人の聖者や学者が集おうともこれ以上のことを語ることはできないであろう。
あなた方、皆に幸福と繁栄がありますように。
あなた方、皆の心が喜びに満ちて、ダルマの修行に精進できますように。
―ミラレパ「ミラレーパと鳩」より
2014年3月4日火曜日
不滅の言葉(コタムリト)
聖ラーマクリシュナ |
『私はマーにお祈りするとき、こう言ったよ。
マー、ほかにわたしは何もいらない。
純粋な信仰心だけをおくれ、とね』
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* * * * * *
神への愛はすべての修行にまさる
信仰こそ、この世でいちばんたいせつなもの。
正しい信仰をもっ人には、何一つ恐れることも悩むこともない。
字宙の大実母がすべてを見ていて下さる。護って導いて下さる。
* * * * * *
信仰によって神を見ることができる。
しかし、それは"愛の信仰"とか"赤熱の信仰" というような、成熟した信仰でなければだめだよ。あの御方を心の底から好きになることだ。―子が母を慕うように、母が子を愛するように、妻が夫を恋うるようにね。
神に対してこのような信仰をもつようになると、妻子、親戚、友人などに盲目的に執着するということがなくなる。
慈悲の気持をもっているだけだ。
この世はどこか外国の土地で、ただちょっと仕事をしに来ているだけ…という感じになる。郷里に家やしきがあるのだが、カルカッタに仕事があるから、そのためにカルカッタに家を借りて住んでいる、というわけさ。
神さまが好きになると、現象世界への執着や、俗っぽい感覚からすっかり脱け出せるようになるよ。
神のほんとうの信者は、あくせく働かなくとも、神さまが彼に必要なものをみな与えて下さる。
王様の正統な息子には、毎月じゅうぶんな手当が支給される。わたしは弁護士やなにかのことを言っているんじゃないよ。彼らは苦労して、お客のドレイになって金をかせぐ。わたしはホンモノの王様のことを言っているのさ。
ホンモノの信者は、何の欲もなくて金のことなど気にしないが、金は自然に入ってくる。
バカバッド・ギータに書いてあるように、「おのずから入るもので満ち足りる」
* * * * * *
神のほんとうの信者は、あくせく働かなくとも、神さまが彼に必要なものをみな与えて下さる。
王様の正統な息子には、毎月じゅうぶんな手当が支給される。わたしは弁護士やなにかのことを言っているんじゃないよ。彼らは苦労して、お客のドレイになって金をかせぐ。わたしはホンモノの王様のことを言っているのさ。
ホンモノの信者は、何の欲もなくて金のことなど気にしないが、金は自然に入ってくる。
バカバッド・ギータに書いてあるように、「おのずから入るもので満ち足りる」
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2014年3月2日日曜日
心の解放と精神の導師
ミラは困惑の極致だった。そんな彼をみかねたグルの妻は、彼をラマ・ゴクパのもとに送った。ゴクパは彼になにがしかの教えをあたえた。しかし、なんの進歩もなかった。
ラマの許可がなければ、どんな教えも力をもたないことが、これでわかった。ゴクパは、ミラをマルパのもとに送りかえした。数日間は、何事もなく過ぎた。
しかし、ある儀式がおこなわれている最中に、マルパはその場にいあわせた者のすべてを、手ひどくしかりつけた。この中にはラマ・ゴクパも混じっていた。ミラはラマの怒りの意味を理解して、深い絶望におそわれた。自分の存在が、ゴクパや奥さんにとんでもない迷惑をかけている。そう思った彼は、絶望のあまり自殺をはかった。
ラマ・ゴクパが自殺を止めた。そのとき、ようやく、マルパの怒りが静まった。グルはミラを身辺に呼び寄せた。ミラはこのとき、グルから「ミラ・ドルジェ・ギャルツエン」という、新しい名前をもらって、生まれかわった。ミラには、デチョクの密教の教えがあたえられ、ラマの力をもって、六十二の守護神が、ミラの前に出現した。こうして、ミラレパは、マルパからすべてのイニシエーシヨンと教えを、もらうことができたのだ。ミラレパはあらゆる苦しみ、悩み、疑いとたたかった。マルパが弟子にあたえた試練は、まったく不条理なものであったが、それに従いぬくことによって、ミラレパはとてつもない、内面の成就をなしとげることができたのである。
昔のグルと弟子の関係は、こんなものだったのだよ。二人の心が完全にひとつのものとなるまで、グルはいつまでも弟子に試練をあたえ続けたのだ。グルにちょっとでも、嘘を言ってはいけないし、裏切ってもいけない。それはあなたの中で、たちまちにして、巨大な罪へとふくれあがってしまうだろう。
あるとき、偉いヨーギの弟子が、たくさんの人々の前で、立派な説教をしていたことがあった。その場に、グルであるヨーギが、乞食のかっこうをしてあらわれた。弟子はそれに気がついたけれど、まわりにいっぱいの人がいるので、その中で乞食のかっこうをしたグルにひざまずくのが、恥かしかった。それで気がつかないふりをした。夜になって、弟子はグルのもとを訪れ、その前にひれ伏した。
グルが言った。「おまえはどうして、さっき私にひざまずかなかったのだい」
弟子が言う。「いいえ。私はまったく気がつきませんでした」
そう言い終わるが早いか、彼の目玉がはずれて、床に落ちた。あわてた弟子は、グルに大あやまり、やっと目玉をとりもどした、という、これはいかにもインド風のお話だ。
こういう話を通して、何を言いたいのかは、あなたにはわかっていることだろう。今のような時代には、真実の教えに出会い、それを学ぶことができるなど、ほとんど奇跡に近いことなのだよ。その教えをあなたに伝えてくれるグルの存在の重要さが、その一事からでも理解できるだろう。昔の人は、そういう幸運に恵まれたことを、心から感謝して、あらゆる困難に耐えて、教えを求めたものなのだ。私があなたに求めているのも、そういう心構えなのだよ。
心の解放と精神の導師「改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行 (中公文庫)」
ラマの許可がなければ、どんな教えも力をもたないことが、これでわかった。ゴクパは、ミラをマルパのもとに送りかえした。数日間は、何事もなく過ぎた。
しかし、ある儀式がおこなわれている最中に、マルパはその場にいあわせた者のすべてを、手ひどくしかりつけた。この中にはラマ・ゴクパも混じっていた。ミラはラマの怒りの意味を理解して、深い絶望におそわれた。自分の存在が、ゴクパや奥さんにとんでもない迷惑をかけている。そう思った彼は、絶望のあまり自殺をはかった。
ラマ・ゴクパが自殺を止めた。そのとき、ようやく、マルパの怒りが静まった。グルはミラを身辺に呼び寄せた。ミラはこのとき、グルから「ミラ・ドルジェ・ギャルツエン」という、新しい名前をもらって、生まれかわった。ミラには、デチョクの密教の教えがあたえられ、ラマの力をもって、六十二の守護神が、ミラの前に出現した。こうして、ミラレパは、マルパからすべてのイニシエーシヨンと教えを、もらうことができたのだ。ミラレパはあらゆる苦しみ、悩み、疑いとたたかった。マルパが弟子にあたえた試練は、まったく不条理なものであったが、それに従いぬくことによって、ミラレパはとてつもない、内面の成就をなしとげることができたのである。
昔のグルと弟子の関係は、こんなものだったのだよ。二人の心が完全にひとつのものとなるまで、グルはいつまでも弟子に試練をあたえ続けたのだ。グルにちょっとでも、嘘を言ってはいけないし、裏切ってもいけない。それはあなたの中で、たちまちにして、巨大な罪へとふくれあがってしまうだろう。
あるとき、偉いヨーギの弟子が、たくさんの人々の前で、立派な説教をしていたことがあった。その場に、グルであるヨーギが、乞食のかっこうをしてあらわれた。弟子はそれに気がついたけれど、まわりにいっぱいの人がいるので、その中で乞食のかっこうをしたグルにひざまずくのが、恥かしかった。それで気がつかないふりをした。夜になって、弟子はグルのもとを訪れ、その前にひれ伏した。
グルが言った。「おまえはどうして、さっき私にひざまずかなかったのだい」
弟子が言う。「いいえ。私はまったく気がつきませんでした」
そう言い終わるが早いか、彼の目玉がはずれて、床に落ちた。あわてた弟子は、グルに大あやまり、やっと目玉をとりもどした、という、これはいかにもインド風のお話だ。
こういう話を通して、何を言いたいのかは、あなたにはわかっていることだろう。今のような時代には、真実の教えに出会い、それを学ぶことができるなど、ほとんど奇跡に近いことなのだよ。その教えをあなたに伝えてくれるグルの存在の重要さが、その一事からでも理解できるだろう。昔の人は、そういう幸運に恵まれたことを、心から感謝して、あらゆる困難に耐えて、教えを求めたものなのだ。私があなたに求めているのも、そういう心構えなのだよ。
心の解放と精神の導師「改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行 (中公文庫)」
2014年2月27日木曜日
マハー・シヴァラートリー
今日はシヴァラートリーです。
シヴァラートリーとは「シヴァの夜(ラートリー)または吉兆の夜」という意味です。シヴァラートリーは、毎月、満月から13日夜/14日目にあたります。しかし、特にパールグナ月(マーガ月となる地域もあります。2月~3月)のシヴァラートリーは、マハー・シヴァラートリーと呼ばれ、一年の内でもっとも神聖な夜として知られています。
大脳の中の花弁は、千弁の蓮華。
霊性の師の部屋で、それが遥かな秘密の場所。
その蓮華に日輪の形で、至高のシヴァは存在し、唯一であって、
白色の千弁の蓮華は花開き、花芯にあって、そこにシヴァの光輪は輝き、
あなたがそこに上ると、シヴァ自身の姿となる。
そして純粋精神シヴァそのものと一つになる。
-ラーマクリシュナ パラマハンサ
オーム、
私は思考器官にあらず、知性や自我意識や心にあらず。
聴覚にあらず、味覚にあらず、嗅覚にあらず、視覚にあらず。
虚空に非ず、地に非ず、火に非ず、水に非ず、風に非ず。
私は、純粋な意識と至福そのもの。
私はシヴァである、私はシヴァである。
私は生気に非ず、五風に非ず、七つの要素に非ず、五つの蓋被にあらず。
手に非ず、舌に非ず、生殖器官に非ず、排泄器官に非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私はシヴァである、私はシヴァである。
私は、好き嫌いに非ず、貪欲、迷妄に非ず。
利己心を持つに非ず、自尊心を持つに非ず。
善行に非ず、救いに非ず、欲望に非ず、心の対象に非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
私は徳に非ず、罪に非ず、喜びに非ず、悲しみに非ず。
聖句に非ず、聖地に非ず、ヴェーダに非ず、供儀にあらず。
私は食べる行為に非ず、食べるものに非ず食物に非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
私には、死はなく、恐怖はなく、カーストの区別はなく。
父もなく、母もなく、生まれることもなく。
友もなく、仲間もなく、師匠もなく、弟子もない。
私は、純粋な意識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
私は心象を超え、形を持たず、遍在者であり。
私は一切処にあって、感覚にとらわれず。
私は、知られうるものに非ず、解脱するものに非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
-ラーマクリシュナ パラマハンサ
シヴァラートリーとは「シヴァの夜(ラートリー)または吉兆の夜」という意味です。シヴァラートリーは、毎月、満月から13日夜/14日目にあたります。しかし、特にパールグナ月(マーガ月となる地域もあります。2月~3月)のシヴァラートリーは、マハー・シヴァラートリーと呼ばれ、一年の内でもっとも神聖な夜として知られています。
大脳の中の花弁は、千弁の蓮華。
霊性の師の部屋で、それが遥かな秘密の場所。
その蓮華に日輪の形で、至高のシヴァは存在し、唯一であって、
白色の千弁の蓮華は花開き、花芯にあって、そこにシヴァの光輪は輝き、
あなたがそこに上ると、シヴァ自身の姿となる。
そして純粋精神シヴァそのものと一つになる。
-ラーマクリシュナ パラマハンサ
オーム、
私は思考器官にあらず、知性や自我意識や心にあらず。
聴覚にあらず、味覚にあらず、嗅覚にあらず、視覚にあらず。
虚空に非ず、地に非ず、火に非ず、水に非ず、風に非ず。
私は、純粋な意識と至福そのもの。
私はシヴァである、私はシヴァである。
私は生気に非ず、五風に非ず、七つの要素に非ず、五つの蓋被にあらず。
手に非ず、舌に非ず、生殖器官に非ず、排泄器官に非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私はシヴァである、私はシヴァである。
私は、好き嫌いに非ず、貪欲、迷妄に非ず。
利己心を持つに非ず、自尊心を持つに非ず。
善行に非ず、救いに非ず、欲望に非ず、心の対象に非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
私は徳に非ず、罪に非ず、喜びに非ず、悲しみに非ず。
聖句に非ず、聖地に非ず、ヴェーダに非ず、供儀にあらず。
私は食べる行為に非ず、食べるものに非ず食物に非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
私には、死はなく、恐怖はなく、カーストの区別はなく。
父もなく、母もなく、生まれることもなく。
友もなく、仲間もなく、師匠もなく、弟子もない。
私は、純粋な意識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
私は心象を超え、形を持たず、遍在者であり。
私は一切処にあって、感覚にとらわれず。
私は、知られうるものに非ず、解脱するものに非ず。
私は、純粋な知識と至福そのもの。
私は、シヴァである、私はシヴァである。
-ラーマクリシュナ パラマハンサ
2014年2月22日土曜日
純粋の愛とは何か
「私の息子よ、君が私を観察しているときには、私も君を観察している。
あることを知っているか。人びとは、霊性とは何か、ということを知らない。この世界で、彼らの大部分は、純粋の愛とは何か、ということを知らない。どのように愛するか、ということを知らない。にもかかわらず、みなが、他の人びとに愛されることを期待する。
彼らは、私が彼らの難問を解決することを期待して、私に会いにくる。私は彼らに、いっさいを神にお話しせよ、彼が苦痛を除いて下さる、と話してやる。
あることを知っているか。人びとは、霊性とは何か、ということを知らない。この世界で、彼らの大部分は、純粋の愛とは何か、ということを知らない。どのように愛するか、ということを知らない。にもかかわらず、みなが、他の人びとに愛されることを期待する。
彼らは、私が彼らの難問を解決することを期待して、私に会いにくる。私は彼らに、いっさいを神にお話しせよ、彼が苦痛を除いて下さる、と話してやる。
2014年2月18日火曜日
ギャルセイ・リンポチェが修行者たちに
過去の出来事に想いをはせたり、これから起こるかもしれないことを、ぼんやり考えているうちに、いつしか心はそちらの方にさまよいでてしまう。そんな時には、ギャルセイ・リンポチェが修行者たちにあたえたこんな忠告を思いだして、心をひきしめるといい。
2014年2月16日日曜日
アシュターヴァクラ・ギーター 純粋なる智慧
一から二が生まれる!
これが苦しみの根源だ。
私は二のない、一なるもの。
純粋なる智慧、純粋なる歓喜だ。
全世界は仮の姿でしかない。
ただそれだけを悟りなさい。
それ以外に救われる道はない!
これが苦しみの根源だ。
私は二のない、一なるもの。
純粋なる智慧、純粋なる歓喜だ。
全世界は仮の姿でしかない。
ただそれだけを悟りなさい。
それ以外に救われる道はない!
2014年2月14日金曜日
2014年2月12日水曜日
いつもわたしのことを思いながら戦いなさい
「私を信じ愛しきることによってのみ、私の真実の姿を見ることも知ることもでき、さらに私の中へと入ってくることさえできるのだ。
おお敵を殲滅する勇者よ!
私を愛慕して私のために働き、私を至上目的としてすべての欲望から離れ、すべての生類に思いやりを持つ人は、疑いなく私の中に入ってくるだろう。」
「死の時が来て肉体を離れるときに私の事を思う人は、誰でもまっすぐにわたしのもとへとやってくる。これは疑いのない真実である。
誰であろうと、肉体を離れるときに心で思ったもののところへ必ず行く。
ゆえに、君はいつもわたしのことを思いながら戦いなさい。
心も頭もわたしにしっかりと結び付けておきさえすれば、君は疑いなくわたしのもとへと到達する。
ヨーガをしっかり実践し、光り輝く真我から心と頭を決してそらさぬ人は、必ずそのもとへと到達するのだ。」
おお敵を殲滅する勇者よ!
私を愛慕して私のために働き、私を至上目的としてすべての欲望から離れ、すべての生類に思いやりを持つ人は、疑いなく私の中に入ってくるだろう。」
「死の時が来て肉体を離れるときに私の事を思う人は、誰でもまっすぐにわたしのもとへとやってくる。これは疑いのない真実である。
誰であろうと、肉体を離れるときに心で思ったもののところへ必ず行く。
ゆえに、君はいつもわたしのことを思いながら戦いなさい。
心も頭もわたしにしっかりと結び付けておきさえすれば、君は疑いなくわたしのもとへと到達する。
ヨーガをしっかり実践し、光り輝く真我から心と頭を決してそらさぬ人は、必ずそのもとへと到達するのだ。」
2014年2月10日月曜日
チャイタニヤ
「宇宙にあるすべてのものが真我をよりどころとしていますが、その真我をはじめ、あらゆるものの根本的なよりどころがクリシュナです。
そしてその権化のよりどころであるクリシュナが、自らチャイタニヤ師の姿を取って権化されたのです。
それゆえチャイタニヤ師は、あらゆるものに勝る真理なのです。」
‐チャイタニヤ伝
それゆえチャイタニヤ師は、あらゆるものに勝る真理なのです。」
‐チャイタニヤ伝
チャイタニヤ |
するとしばらく後のあるとき、ラーマクリシュナが自分の部屋の外に立っていると、チャイタニヤと信者たちが神の御名を歌いながらパンチャヴァティーの方からやってきて、ドッキネッショル寺院の表門の方に進み、木々の背後に消えていくのを見た。
その信者の群衆のある者たちは自らを制御する自由を失い、ある者たちは至福の中で狂ったように踊り狂っていた。彼らすべてが、神への愛から生まれた霊的酩酊状態にあった。その群衆は巨大であったが、ラーマクリシュナはそのとき、そこにいた信者たちの中の二、三人の顔を目に焼き付けた。
後にラーマクリシュナのもとにやってきた信者たちの中にその同じ顔を見つけたとき、ラーマクリシュナは、彼らが前生においてチャイタニヤの仲間であったことをハッキリと知ったのだった。
―要約・ラーマクリシュナの生涯
「チャイタニヤ」
生没年: 1485-1533
インドの宗教思想家。ヒンドゥー教のビシュヌ派の一分派チャイタニヤ派の開祖。ベンガル地方で新たにクリシュナ・ラーダー崇拝の宗教運動を始めた。奉仕の実践を尊び,愛の精神を強調した。
>>第二章 クリシュナ・チャイタニヤに関する真理
私たちがエゴを放棄しない限り、神は私たちの重荷を引き受けてはくださらない
私たちがエゴを放棄しない限り、神は私たちの重荷を引き受けてはくださらない。
あるとき、ラクシュミー女神と至高者ナーラーヤナとがヴァイクンタにいらっしゃったが、ナーラーヤナがにわかに立ち上がられた。
彼の足をさすっていたラクシュミーが、
『主よ、どこにおいでになるのでございますか』
と問われると、ナーラーヤナが、
『私の信者の一人がたいそう危ない目にあっている。助けてやらなければならない』
とお答えになった。
こう言いながら彼は出て行かれたのだが、すぐに戻っていらっしゃった。
ラクシュミーが、
『主よ、なぜこんなに早くお帰りになったのでございますか』
と問われると、ナーラーヤナは微笑しておっしゃった。
『この信者は私への愛に心を奪われて道を歩いていた。
数人の洗濯夫が草の上に着物を干していたのだが、信者はその着物の上を歩いてしまった。これを見た洗濯夫たちは男を追いかけ、持っている棒で打とうとした。それで私は彼を守るために急いで外に出たのだ。』
そして、
『それなのになぜすぐに帰っていらっしゃったのでございますか』
というラクシュミーの問いに、ナーラーヤナは笑って、
『信者が自分で、彼らに投げつけようとしてレンガを拾うのを見たのだよ。(みな笑う)それだから戻ってきたのだ』とおっしゃった。
――「ラーマクリシュナの福音」より
あるとき、ラクシュミー女神と至高者ナーラーヤナとがヴァイクンタにいらっしゃったが、ナーラーヤナがにわかに立ち上がられた。
彼の足をさすっていたラクシュミーが、
『主よ、どこにおいでになるのでございますか』
と問われると、ナーラーヤナが、
『私の信者の一人がたいそう危ない目にあっている。助けてやらなければならない』
とお答えになった。
こう言いながら彼は出て行かれたのだが、すぐに戻っていらっしゃった。
ラクシュミーが、
『主よ、なぜこんなに早くお帰りになったのでございますか』
と問われると、ナーラーヤナは微笑しておっしゃった。
『この信者は私への愛に心を奪われて道を歩いていた。
数人の洗濯夫が草の上に着物を干していたのだが、信者はその着物の上を歩いてしまった。これを見た洗濯夫たちは男を追いかけ、持っている棒で打とうとした。それで私は彼を守るために急いで外に出たのだ。』
そして、
『それなのになぜすぐに帰っていらっしゃったのでございますか』
というラクシュミーの問いに、ナーラーヤナは笑って、
『信者が自分で、彼らに投げつけようとしてレンガを拾うのを見たのだよ。(みな笑う)それだから戻ってきたのだ』とおっしゃった。
――「ラーマクリシュナの福音」より
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