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2012年5月30日水曜日

ヴィヴェーカーナンダとブラフマーナンダの性質

Brahmananda
ヴィヴェーカーナンダとブラフマーナンダ――ラーマクリシュナの高弟の双璧であるこの偉大な二つの魂は、お互いに愛し合い、尊敬し合っていましたが、その性質は大きく異なり、またそれは相補うものでもありました。
かつてラーマクリシュナはこう言いました。
「ナレン(ヴィヴェーカーナンダ)は絶対者、非人格神の領域に住んでいる。彼は、引き抜かれた鋭い識別の剣のようだ。
ラカール(ブラフマーナンダ)は神、大慈悲者、一切の恵まれた性質の宝庫の領域に住んでいる。彼は、母の膝の上で一切を彼女に任せ切っている幼子のようである。」


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Vivekananda
ヴィヴェーカーナンダはすべての悪と不純を焼き尽くす、燃え盛る太陽の炎のようでした。ブラフマーナンダは痛む心を慰める、柔らかい月の光のようでした。
ヴィヴェーカーナンダは常に無智迷妄と戦い、深く激しい大海のようでした。ブラフマーナンダは内的で無言で、忍耐強い心をもつ、不動の青空のようでした。

聖者の生涯「ブラフマーナンダ」より

2012年5月27日日曜日

あなただけが私のすべて


「神お一人だけが、永遠に自分のものなのだ。
うれしいときも悲しいときも、あのお方のことを思っているといい。」

―ラーマクリシュナ




おお神よ
あなただけが私の母
あなただけが私の父

おお神よ
あなただけが私の身内
あなただけが私の友人

おお神よ
あなただけが私の明智
あなただけが私の宝

あなただけが私のすべて おお、神よ神よ
あなただけが私のすべて おお、神よ神よ




2012年5月24日木曜日

”ラーマの思召し”

私の好きな話がある。
何か困ったときに思い出す。
すべては”ラーマの思召し”

『不滅の言葉』より

一信者「”ラーマの思召し”というのは、どういうお話でございますか?」
聖ラーマクリシュナ
聖ラーマクリシュナ「ある村に一人の機織職人が住んでいた。大そう信心深くて心掛けのいい人だったので、誰もが彼を信用して愛していた。この職人は市場にいって自分の織った布を売っていた。買い手が値段を聞くとこう言う——『ラーマの思召しで糸の値段が一ルピー。ラーマの思召しで工賃が四アナ。ラーマの思召しで、もうけが二アナ。だから布の値段はラーマの思召しで一ルピー六アナになりやす』。人々は彼を心から信用していたので、値切りもせずにすぐその金を払って布を買っていく。

2012年5月22日火曜日

これが魂の救済である。



生あるとろに死は存在する。
幸福あるところに不幸もある。
幸福をつかもうとすれば、その影にひそむ苦しみがあなたに降りかかるであろう。
ゆえに、苦楽から己を切り離し、真我と一つになった者が、永遠なる至福を見つけるのだ。
これが魂の救済である。


――「ラーマーヤナ」より 聖仙の言葉

2012年5月20日日曜日

人生の目的


「いいかい、人生の目的は仕事だなどと言っている人種もあるが、とんでもないことだよ。――人生の目的は、神を体得することだ。仕事は、いちばんはじめの第一章だ。目的などであるものか。
だから、無執着、無私の働きも、一つの手段であって、目的ではない。」

——ラーマクリシュナ・パラマハンサ

行為の善や悪は、一瞬で見極めなければならない


行為の善や悪は、一瞬で見極めなければならない。
そしてその行為を試すために、監視員を心に置きなさい。
そして、こう考えるのじゃ。

2012年5月19日土曜日

風のなかの枯葉のような気持ち

「風のなかの枯葉のような気持ちでこの世に住んでいなさい。風は枯葉を家の中に運んでいったり、ゴミの山に運んでいったりする。風の吹くまま、どこにでも飛んでゆく。結構な場所だったり、ひどい場所だったり! 神様は、今はお前を世間という場所においた。けっこうじゃないか、今はそこに住んでいなさい。———またそこからもっといい場所に運んで落として下すったら、その時はまたその時にようにすればいい。ラームプラサードの歌にもあるだろう。

2012年5月17日木曜日

カーシー・ヴィシュワナート・ガンゲー ―Kashi Vishwanath Gange





ナマーミーシャ ミーシャン ニルワーナ ルーパン
(ニルヴァーナの至福の姿をお持ちの宇宙の支配者、北西の主(シヴァ)に礼拝し奉ります。)

ウィパン ヴァーパカン プラン ヴェーダスワルーパン
(ヴェーダの御姿をとった、全宇宙に偏在する至高のブラフマンの帰依し奉ります。)

ニジャン ニルグーナン ニルヴィカルバン 二リーハン
(あなたは属性を持たず、時を超越し、限定なき存在。)

チッダカーシャ マーカーシャ ワーサン バジェーハン
(欲望なき、空に包まれし御方よ、至福の空であられるあなたに礼拝いたします。)

ニラーカーラ モンカーラ ムーラン トゥーリーヤン
(あなたの中の、その本質を持つオームカーラを超越した無形の御方よ。)

ギラ ギャーナ ゴディータ ミーシャン ギリーシャン
(あなたは言葉、智慧、物質界を超越しておられます、おお、山の王よ。)

カラーラム マハーカーラ カーラム クリパーラム
(時を破滅させ、すべてを飲み込む恐るべき優しき主よ、最も慈悲深き御方よ。)

グナーガーラ サンサーラ パーラム ナトハム
(経験のすべての性質、特質はあなたから生じますが、世界はあなたの終わりを決してみつけることはできないのです。)

Wibhum vyaapakam braham wedaswaroopam
Nijam nirgunam nirwikalpam nireeham
Chidaakaasha maakaasha waasam bhajeham
Niraakaara monkaaramoolam tureeyam
Giraa gyaana goteeta meesham gireesham
Karaalam mahaakaala kaalam kripaalam
Gunaagaara sansaara paaram natoham
Hara Hara Mahaadeva Shaambho
(Bom Bom) Kaashi Vishwaanaatha Gange


2012年5月14日月曜日

バクティ・ヨーガの八つのサインー泣くー

バクティ・ヨーガの八つのサイン

1.アスルパータ(涙が流れる)

2.プラカ(鳥肌が立つ)

3.カンパナ(振動が起きる)

4.ローダナ(泣く)

5.ハーシャ(笑う)

6.スウェーダ(汗が流れる)

7.ムールッチャー(死んだようになる)

8.スワラバンガ(しゃべれなくなる)



「泣く」という事は、神から恩寵が下った状態の「兆し」か「バロメーター」かなと思います。

2012年5月13日日曜日

2011年インド修行旅行記 マトゥラー~ヴリンダーバンの森


マトゥラー~ヴリンダーバンの森

8月22日
今日はクリシュナの誕生日。
あいにく高熱が出てダウン。
動くのもしんどく、ずーっと部屋で寝ていた。

8月23日
マトゥラーに向かった。
クリシュナが生まれた場所である。
マトゥラーの牛。「ハヌマーン」の物語ではその昔、地球に悪がはびこって、困った「地球」は「白い牛」に姿を変え、主に助けを求めにいき、シヴァ神の化身としてハヌマーンが生まれた。地球はたまに牛に姿を変えているのかもしれない。
チャイ屋のおじさん
閑散とした町に到着後、何も見るとこがないらしいという話で、そんな中でとりあえずみんなでチャイを飲んだ。


その後、クリシュナが生まれた場所である牢獄を見にいった。

プレーマ・バクティ(真の愛のバクティ)とか、ラーンガー・バクティ(赤く燃えるバクティ)


信仰によって神を見ることができる。
しかしそれは、プレーマ・バクティ(真の愛のバクティ)とか、ラーンガー・バクティ(赤く燃えるバクティ)というような、成熟した信仰でなければダメだよ。あのお方を心の底から好きになることだ。――子が母を慕うように、母が子を愛するように、妻が夫に恋するようにね。
神に対してこのような信仰を持つようになると、妻子、親戚、友人などに盲目的に執着するということがなくなる。
慈悲の気持ちを持っているだけだ。
この世はどこかよその土地で、ただちょっと仕事をしに来ているだけ・・・・・・という感じになる。故郷に家屋敷があるのだが、カルカッタに仕事があるから、そのためにカルカッタに家を借りて住んでいる、というわけさ。
神を愛するようになると、この世への執着や、俗っぽい感覚からすっかり抜け出せるようになるよ。


――ラーマクリシュナ・パラマハンサ

2012年5月10日木曜日

純粋な信仰

実は今日、誕生日で35歳になりました。

仕事の休憩中、「何が欲しい?」と自問自答すると

2012年5月8日火曜日

大事なのは”熱心”であること

モヒマチョロン「どのような働きをすれば神をさとることができるのでしょうか?」

聖ラーマクリシュナ「これをすれば悟れるが、あれをしても悟れないーというようなものではないんだ。すべては、あの御方のお恵み次第でね。それでもやはり一生懸命になって何かの方法で働きかけなければいけない。大事なのは”熱心”であること。一所懸命になるとあのおかたは同情してお恵みを下さる
でも、ある種の条件がいることは確かだね。サドゥ(世俗の生活をすて、求真一途の出家)とつきあうこと。識別心が備わっていること。親切で秀れた師をもつこと。


ー「不滅の言葉」聖ラーマクリシュナ


ゴーピーの仲間だけの 他人は知らぬ秘密のはなし。

解脱がほしいと言うのなら
わたしは気軽に与えもするが
けれども順な信仰を
ほしいと言われちゃわたしが困る。
なぜならこれを獲た人は
あらゆるものに打ち勝って
すべての人にしずかれ
三界の勝者となるからだ。

チャンドラバリよ、よくおきき
信仰(まこと)がいかに強いかを———
解脱を得るのはやさしいが
信仰を獲るのはむずかしい。
過度の慈善をいましめて
バリを地獄に送ったものの
彼の信仰にほだされて
わたしは地獄の守衛になったよ。

順な信仰はここにも一つ
ヴリンダーヴァンの牧場のはなし。
ゴーピーの仲間だけの
他人は知らぬ秘密のはなし。
清い信仰にほだされて
わたしはナンダの家に住み
ナンダを養父(ちち)と呼び仕え
頭で荷物を運んでいたよ。

あの御方を愛し、あの御方の甘くやさしいお情けを味わう。
あの御方は甘露、信者はそれを飲む人。
あの御方は蓮花、信者は蜂。
信者は蓮花の蜜を吸う。
信者が神なしではいられないように、神もまた、信者なしではいられない。
そこで、信者が甘露となり、神がそれを楽しむ。
信者が蓮花となり、神が蜂となる。
あの御方は、自分の甘さ美しさを味わうために、二つになっていらっしゃるのだよ。
これが、ヴリンダーヴァンの牧場の、クリシュナとラーダーの遊戯(リーラー)だ。

ーラーマクリシュナ・パラマハンサ






2012年5月7日月曜日

沈めわが心よ

沈め 沈め 沈め
美しき海に わが心よ
深き底に ゆきて探せば
聖愛の宝玉 汝が手に入らん

探せ 探せ 探せ
神の故郷を 汝が胸に
ともせ ともせ ともせ
智慧の灯を 常に明るく

ー「不滅の言葉」ラーマクリシュナ・パラマハンサ


2012年5月1日火曜日

2011年インド修行旅行記 「ヴリンダーバン」ゴーバルダナ山を探して Govardhana


「ヴリンダーバン」ゴーバルダナ山を探して

8月21日
デリーから南に2時間ほどの行ったところにヴリンダーバンがある。
そして今回の旅行で、私が一番行きたかった町だ。

また、ただの旅行ではなく、インドの聖地は師と行きたいと思ったいたので、この話が来たときは願望が叶って「キター!!」と思った。

2012年4月30日月曜日

君の罪など小さい、小さい。それなのにこんなに意気消沈して!

神に呼びかけなさい。『彼』は君に、弱さを乗り越え、迷いを破壊する強さを与えてくださるだろう。 『彼』は情け深いお方だ。君の罪がどんなに大きかろうと、『彼』の慈悲の流れが君を避けるようなことはない。君の罪など小さい、小さい。それなのにこんなに意気消沈して! アジャミラとヴァールミキのことを考えてごらん。彼らの罪に比べれば、君の罪はなんでもない。

ブラザー・ヴィヴェーカーナンダがよく言っていたことを知っているかい? 
「体についたインクの小さなしみを思い煩うな。それはなんでもないのだ。神の無限の慈悲の海で浴すれば、千のインク染みが洗い流されるだろう」と。

だから言うのだ、嘆くなと。
休みなく祈りなさい。君の悪い性質はじきになくなるだろう。

-アドブターナンダ

クリシュナクリシュナ

去年の8月にインドの聖地を巡ってきて、一番感動した場所を動画にしてみました。
至高者クリシュナの遊んだ場所であろう、ヤムナー川周辺です。

マトゥラーからブリンダーバンに戻るバスの中では、「クリシュナクリシュナ」を口ずさんでいたのだけれど、バスと同じ速さでかけっこしているクリシュナと、バララーマが見えた気がして、その後涙が出てきました。

私の心の奥深くに、ブリンダーバンがあって、
そこにはクリシュナがいつも遊んでいるんですね。

この気持ち、忘れないように。






心が鈍いときは、神への賛歌を歌うことによって、心を目覚めさせなさい。
心が散漫なときは、プラーナーヤーマ、礼拝、瞑想によって、寂静に戻しなさい。
心が何かに執着しているときは、平等心と識別智によって、執着から心を引き離しなさい。

(サーダナの指針の花輪)

2012年4月29日日曜日

マハーマントラ-Mahamantra





Hare Krishna Hare Krishna
Krishna Krishna Hare Hare
Hare Rama Hare Rama
Rama Rama Hare Hare


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2012年4月28日土曜日

ラーマーヌジャの教え

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『あなたの精神的指導者を崇めなさい。そして聖者たちを崇めなさい。
過去の偉大な聖者たちの教えに、真摯な信仰を持ちなさい。
決して、感覚の奴隷になってはいけません。
世俗的な知識の収集に満足してはいけません。
神の偉大さと彼の創造物の不可思議についての本を、繰り返し読みなさい。
もし偶然にも、あなたがグルの恩寵によって智慧を輝かせることに成功したならば、感覚の対象に魅力を感じる事は絶えるでしょう。すべての感覚に無関心でいることを学びなさい。
神の御名と栄光を口にするのと同じくらい何度も、神の信者たちの名前と栄光を話すことを喜びなさい。
覚えておきなさい。神の信者に奉仕する者は、素早く神を実現するでしょう。
どんなにあなたが賢くても、神と神の信者への奉仕にあなた自身を捧げることがなければ、あなたは救われないでしょう。
決して、私欲を満たす手段としてヴィシュヌ派教団の生活を考えてはいけません。理想を実現するためだけに努力しなさい。』


『1日のうち少なくとも1時間は、あなたのグルの偉大さを瞑想しなさい。
そして毎日、アルヴァースや他の聖者たちの神聖な書物を読みなさい。
いつも、神に没頭する道を行く仲間といることを求めなさい。そして「救済に導かれる他の道があるよ」という者たちを避けなさい。
汚い金儲けや感覚の楽しみを追及する人々と関わってはいけません。
できる限り神の信者と交わりなさい。
神の神聖な像をただの石だと見る者や、彼ら自身の精神的な指導者を普通の人間と見る者、カーストの高低によって優れた信者たちを見る者、一切の罪を浄化し洗い流すパワーを持ったグルの御足に触れた神聖な水を普通の水と変わりないと言う者、神聖なマントラをただの音の集まりだという者、至高の神々の世界をデーヴァよりも高くないという者は誰でも――苦しみから救うべき者達なのだと見なしなさい。』

ラーマヌージャがこの説法を終えた時、弟子たちは、
「私たちの命がこの体から旅立つまでは、この世でどのように生きていけばいいでしょうか。もう一度お説き下さい」
とラーマヌージャにお願いしました。ラーマーヌジャはこう答えました。

『真に神の御足に自己を投げ出した者は、将来についてどんな思考も向けてはなりません。それは、全面的な彼への自己の明け渡しです
――その繋がりの中では、ほんの少しの心配でもあるならば、それは自己放棄という名の偽善的行為だとあばかれます。
人生のすべては、過去のカルマによって決定されています。――だから、それを嘆き悲しむのは適切ではありません。
あなたの義務の遂行を、現世的な目的を叶えるための手段として考えるべきではありません。それらを至高者への奉仕であると見なさい。』

『シュリーバーシャを研究し、それを他の人に教えなさい。――これが神への最大の奉仕になります。
それが可能でなければ、聖サタクローパとその他の偉大な魂が書いた聖なる書物を勉強しなさい。そして資質のある弟子に教えなさい。
それが可能でなければ、地球上にある数々の聖地で、神への奉仕にあなたの人生を費やしなさい。
そうでなければ、ヤーダヴァードリ(メールコーテー)に粗末な小屋を建て、そこで完全に平穏に暮らしなさい。
または、あなたが背負っているすべての重荷を神に手渡し、ドヴァヤマントラの瞑想に没頭して、今いるところに留まりなさい。
もしこれらの一つも実行することができないなら、智慧と信仰と無執着に満ちた聖者を探しなさい。彼に従い、彼とともに動きなさい。あなたのすべてのエゴを根こそぎ引き抜いて、彼の言葉に忠実に従いなさい。――それがあなたを救う手段なのです。』


この地上にある生命の中で、注意深い選別によって、あなたはあなたの友人と敵と無関心な相手を見分けなさい。聖者はあなたの友人です。神を嫌う人たちはあなたの敵です。現世に執着している人たちには無関心でよろしい。
良質のキンマや花や香りに出合ったときのように、あなたは友人(聖者)を目にすることを喜びなさい。
敵(神を嫌う人)を見たときには、蛇やトラや火などに出くわしたときのように恐れなさい。
無関心な者(現世に執着する人)に出会った時には、切り株や石ころを見たときのように、全く気に掛けなくてよろしい。 
そのような態度が、神に庇護を求めた者の態度です。聖者である友人とのつながりは、あなたの精神に光を与えてくれるでしょう。
敵(神を嫌う人)を避け、無関心でいるべき人(現世に執着する人)たちに関しても、彼らに話しかけないようにしなさい。現世的な利益があなたに増してしまうから、彼らに敬意を払わないようにしなさい。そのような利益は、すぐにあなたを神の敵にしてしまうだろうから。
慈悲に満ちたすべての方々は、あなたが祈るすべての事に応える準備をして、待っていらっしゃるということを覚えておきなさい。決して敵(神を嫌う人)を求めてはいけません。


ラーマーヌジャராமானுஜர்1017年 - 1137年

不断の熱意―スワーミー・シヴァーナンダ


十五年間も瞑想を続けて、何の進歩も見なかった人がいる。それはなぜか。熱心さ、離欲、強い魂の解放への欲求、そして激しい不断の修行がなかったからである。

修行者の間でも、かような不平を聞く。「私は十二年間瞑想してきたのに、何の進歩もない。悟りも開けない。」――なぜか。何が原因なのか。
それは、深い瞑想に没頭して、自分のハートの一番奥まで深めなかったからである。
正しく消化吸収して、神の思いで心を満たさなかったからである。
規則的に修行をおこなわなかったからである。
感覚器官を正しく調御しなかったからである。
心が外に出て行こうとする傾向を完全に抑えて、心を集中しなかったからである。
『今この瞬間に悟るぞ!』という強い決意がなかったからである。
心のすべてを、百パーセント神に向けなかったからである。
途切れのない油の流れのように、神の意識の流れを自分の内に増して行かなかったからである。

何年間か修行した後、進歩しているかどうかチェックしなければならない。十分注意深くしていないと、離欲が薄れ、瞑想の熱意が衰え、退歩する。後戻りする。

いつも神のことを思えば、そのうち必ず神を知る。

――スワーミー・シヴァーナンダ

「実体」は様々の名を持つ一つのもの。

ため池にはいくつかの階段がついている。その中の一つで、ヒンドゥたちは水差しに水をくみ入れてそれをジャルと呼ぶ。他の階段で、マホメット教徒たちは革袋に入れてそれをパーニと呼び、第三の階段ではキリスト教徒たちが汲んでそれをウォーターと呼ぶ。「水はジャルではない。パーニかウォーターである」などと思う事ができるか? 何という不条理なこと!

「実体」は様々の名を持つ一つのもの。そして各人が、その同一の実体を求めているのだよ。
世界中の諸宗教は、それらの階段のようなものである。どの階段でもよい、まじめに、熱意に満ちてまっすぐに降りていけ。必ず、永遠の至福という水に達するであろう。しかし、自分の宗教は他の宗教より良い、と言ってはいけない。

――ラーマクリシュナ・パラマハンサ

2012年4月27日金曜日

人は、主を忘れるからこそ、苦しむのだ。

人は、主を忘れるからこそ、苦しむのだ。
この世の不幸には様々な形がある。しかしそれらの苦しみは、まさにその性質上、永続しない。主を己のものとして受け入れることのできる者は、それほどひどく世俗の悲しみに悩まされることはない。
主をあなた自身の父親あるいは母親と考えるように努めよ。
嘆き悲しむのなら、神の前で嘆き悲しみ
主よ、信仰と献身とをお与えください。そして私にお姿をお見せください
と祈りなさい


――スワーミー・スボダーナンダ

2012年4月26日木曜日

バクティの修練から、熱意が生まれる

「クリシュナへの真の信仰は、宇宙の中で最も稀なものである。
この輪廻の中で、無数の魂が、840万もの生を通り抜けてきた。
その中には、生命体と非生命体がある。
生命体には、鳥、獣、水棲生物など無数の種類がある。その中で、人間に生まれる者は、ごくわずかである。

人間の中でも、野蛮な者や、極度に世俗的な心を持った者が、大部分を占める。
そしてわずかな人々のみが、神を思う。
神を思う者たちの中で、多くの者たちは儀式的な宗教行為に献身し、一部の者だけが叡智に献身する。
そして叡智に献身する百万人の中でも、ほんのわずかな者たちだけが解脱を得、さらに解脱を得た者の中の百万人に一人だけが、クリシュナへの真の信仰を見いだす。
ゆえに、クリシュナの真の信者は、欲望がなく、平静なのである。

他の者たちが、楽、解脱、あるいは霊的な力を切望する一方、クリシュナの信者は完全なる無私の精神で、身体、心、魂を通した心からの『彼』への奉仕のみを欲する。
単に解脱を求める者たちや、自己中心的な達成を望む者たちの心の中には、決してクリシュナへの真の愛は生まれない。

バクティの修練から、熱意が生まれるのだ

その熱意が深まると、それはプレーマと呼ばれる。」

ー「シュリー・チャイタニヤの生涯」より、チャイタニヤがルーパ・ゴースワミーに与えた教え




2012年4月24日火曜日

人生における恐怖と危難と災厄から身を守ってくれるのは




人生における恐怖と危難と災厄から身を守ってくれるのは、常に相携えて進んでいく、ただ二つの事柄だけである。――つまり「聖なる母神の恩寵」と、あなたの側での「信仰と誠実と明け渡し」である。

2012年4月22日日曜日

ラームプラサードの歌

タクル(ラーマクリシュナ)はよくこうおっしゃった。 
「音楽とは取るに足らないものかね? 渇仰の心で涙を流しながら歌うことによって、人は神を見る。」

  M自身、よくこう語っていた。 
「彼(師)は喜びの歌を歌ったり聞いたりするのがお好きであった・・・悲しみや苦しみは世俗的な存在の病である。それらを取り除くために、人は神の御名を唱え、称えるべきである。つまり人は幸せな歌――苦しみの混じらない喜びの歌――を歌うべきである。そのとき初めて人は、自身の存在の病から解放される。そのとき、三つの熱(肉体、心、そして魂)の火は静まるのだ。
  タクルはいつも喜びの歌を歌っていらっしゃった。例えば‘私から喜びを、喜びの具現化そのものであられるあなたを奪わないでおくれ!’」

  Mは歌を歌うのがすきで、師と同じように特にラームプラサードの歌をよく歌った。

「ラーマクリシュナの福音」の著者Mの短い伝記より


2012年4月19日木曜日

神と共に生きなさい―スワーミー・シヴァーナンダ


神と共に一日を始めなさい。

そして、神と共に一日を終わりなさい。

今日一日を、神と共に生きなさい。

これが、真理への道です。



――スワーミー・シヴァーナンダ

2012年4月18日水曜日

入菩提行論

私は、私自身を、勝者とブッダの子とに残り無くささげる。
衆生の最高者たちよ。私を受け入れたまえ。
私は熱烈なバクティ(信愛)をもって、あなた方の召使となる。
あなた方に受け入れられれば、それによって私は恐れるところ無く、輪廻界において衆生のためになることを行なう。
そして以前作った悪に打ち勝ち、重ねて他の悪を行なわない。

(第2章より)


汝が自己の利益を追求している間に、無量のカルパが過ぎ去った。
その大きな骨折りによって、汝はただ苦しみだけを得た。
そこで、私の懇請にしたがって、汝は遅疑なく、それ(利他行)のために身をささげよ。
それが後に有利となることを、汝は見るであろう。なぜなら、ムニ(聖者)の言葉は確かであるから。
もし過去に汝によってこの(利他の)行為がなされたならば、仏陀としての至上の安楽に達したであろう事はもちろん、かかる(惨めな)状態は現われなかったであろう。
それゆえ、無関係の赤白二滴において、汝が自我意識を構成したように、それを他人においても認識せよ。
他人のために密偵となれよ。そして、この身に何でも(有用と)認めたものがあれば、その一つ一つを取り出して、他人のためになることを行なえ。
(第8章より)


自我を楽から振り放せよ。そして他人の苦しみに当たらせよ。
「この者がいつ何をなすか」と、この者の欺瞞を省察せよ。
他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。この者の過失は、わずかであっても、マハーム二(大聖者)の前に明らかにせよ。

他人の大きな名声を称えて、この者の名声を曇らせよ。卑しい奴隷のように、衆生の用にこの者を供えよ。
この者は過失に満ちている。だから偶発的なわずかの徳でほめるに値しない。この者の徳を誰も認識しないようになすべきである。

要するに、自我のために汝が他人を害した――その害悪の一つ一つを、衆生を利益するために、自我にこうむらせよ。

この者に饒舌【じょうぜつ】となるような力を与えるな。恥じらい深く、臆病に、内気に、花嫁のような状態にあらしむべきである。
「かようになせ、かく振舞え、これをなすな」と、かようにこの者を汝の支配下に置くべきである。そして命令に背くときは、罰すべきである。
(第8章より)


2012年4月15日日曜日

ささげる瞑想

最近私は風邪を引いて、なかなか回復しなくて、免疫力を高めようとネットで調べ、免疫を高める食事をしようと試みていた。

もともとの私の食事は、昼は卵サンドイッチ、夜は納豆ソバかラーメンサラダであり、私の体は主に

・卵
・小麦粉
・大豆

でできているんじゃないかと思われ、風邪がなかなかな直らないと、さすがに栄養が足りてないかな?と気になったのだ。

そこでレバーの甘露煮を作って食べていたが、調理する過程で
「レバーに真我がいたらどうしよう?」
と気になった。

でも先生に質問して、真我は心臓に宿っているということと、そもそも健康に執着していたなーと気づいた。
風邪になったとしても、病気になったとしても神が与えたので、喜んで受けようとバクティ的発想になった。

そういえば、最近ささげる瞑想をしていなかったので、またささげる瞑想を始めた。

以前、あらゆる執着しているものをささげる瞑想をしていた時があり、自分が執着しているものの他に、見た景色もささげていたら、ある日、札幌の冬の曇り空の町が「キラキラフィルター」を通したように、町がキラキラして見えたことがあった!
とても綺麗だった。

最終的には、「私」も神にささげていきたい。


神にささげる生け贄。


2012年4月2日月曜日

チャーンドーギャ・ウパニシャッド

人間は、意志を本質とするものである。
すなわち、人間は、死後、彼がこの世において意志したとおりになるのである。
だから人間は、善き志を持たねばならない。

――チャーンドーギャ・ウパニシャッド

2012年3月30日金曜日

母なる神はブラフマーイー

ブラフマンである彼が、ラーマであり、クリシュナであり、シヴァなのだ。

シャクティに帰依することなくして、どうやってブラフマンを悟るというのか?

彼に呼びかける言葉、彼を礼拝する音――それらはすべてシャクティの働きなのだ。

おまえはシャクティから生まれ、そして彼女の御力によって動き、歩いている。

おまえはブラフマンという言葉を聞き、そして理解した。そしてシャクティの恩寵によって、ブラフマンを悟りたいと切望している。

おまえが今シャクティ――母なる神――を手放したら、誰がおまえを維持し、守護するのだね? 

母がいなくては、息子は父の愛を知ることができないだろう。あるいは父が何であるかを知ることができないだろう。

母の愛が子供を育てるのだよ。

どうしてそのような愛溢れる母を手放し、父に手を伸ばすことを望んだりするのか?

母なる神はブラフマーイーなのだよ。

一心に彼女に呼びかけなさい。

彼女はおまえの誠実な祈りを聞いてくださる。そしてすぐにおまえに自らを明かしてくださるだろう。


―ラーマクリシュナ

2012年3月25日日曜日

エゴイズムのない愛だけが、人のすべての不純性を浄める

あることを知っているか。人びとは、霊性とは何か、ということを知らない。この世界で、彼らの大部分は、純粋の愛とは何か、ということを知らない。どのように愛するか、ということを知らない。にもかかわらず、みなが、他の人びとに愛されることを期待する。

彼らは、私が彼らの難問を解決することを期待して、私に会いにくる。私は彼らに、いっさいを神にお話しせよ、彼が苦痛を除いて下さる、と話してやる。



みなが苦しんでいる。しかしみなが、何か良いものを持っている。彼らは多分それを知らないのだろう。私は、彼らが持っているこの良い面を開発するよう、彼らをはげます。すると彼らは自分を信じるようになる。彼らは私の愛を感じ、彼らのハートは溶け、それで私を愛しつづけるようになり、彼ら自身への信念と私への愛を育てることによって霊的生活への準備ができる。

やがて、

ハリの名をとなえよ、ハリの御名をくり返せ、ハリの御名をうたえ

アトゥル「どうしたらつねに神を思っていることができるのでしょうか?」

師「アビヤーサヨガ、つまり実践のヨガだ。毎日神に呼びかけることを実行しなさい。一日で成功することは不可能だ。毎日の祈りによって、神をつよく慕うようになるのだ
もし昼も夜も俗心にひたっているなら、どうしてそんな焦燥感を感じるようになどなるものか。前には、ジャド・マリックは霊的な会話を喜んでいた。自分自身それに加わることを好んでいた。ところがこのごろは、それほど興味を示さない。追従屋どもをまわりにはべらせて、世俗的な会話にふけっている。」

夕暮れであった。部屋にランプがともされた。シュリ・ラーマクリシュナは神々の御名をとなえられた。彼は歌い、そして祈っておられた。彼はおっしゃった、「ハリの名をとなえよ、ハリの御名をくり返せ、ハリの御名をうたえ」また、おっしゃった、「ラーマ! ラーマ! ラーマ!」それから、「おお、母よ、あなたはつねに、あなたの永遠のスポーツを楽しんでおいでになる。教えてください、おお、母よ、何が道ですか。私たちは、あなたのなかに避難しました。あなたの御足のもとに身をよせました。

ラーマクリシュナの福音

2012年1月15日日曜日

アプラーティクリヤー 完全な自己放棄



「『ハリ、主があらゆる生き物の中におわします』と知って、賢い人々は、すべての生き物に対して揺るぎない愛を示す」

 この種の強烈な、心を奪う愛の結果として、完全な自己放棄(おまかせ、自己の明け渡し)、何一つ自分にとって悪いことは起こらないという確信、すなわちアプラ―ティクリヤが生まれます。

 そうすると愛する魂は、もし苦痛が来れば、『ようこそ、苦痛よ』と言うことができます。もし不幸が来ればそれは『ようこそ不幸よ、あなたもやはり愛するお方のお使いです』と言うでしょう。もし蛇が来れば、『ようこそ蛇よ』と言うでしょう。たとえ死がやってきても、このようなバクタはほほえみをもってそれを歓迎するでしょう。

 『彼らすべてがわたしのところに来るとは、私は実に恵まれている。すべてを歓迎する』――神と『彼のもの』であるすべてのものへの強烈な愛から生まれる完全なおまかせのこの境地に達したバクタは、自分が受ける影響に関して、楽しみと苦しみとを区別することをやめます。彼は、苦痛や不幸に不平を言うというのはどんなことであるのか、知らないのです。
 このような、愛そのものであられる神の思し召しへの文句なしのおまかせは、実に、華々しく英雄的な行為のすべての栄光よりも価値のある、修行の成果です。」


――ヴィヴェーカーナンダ

ロンチェンパの発菩提心

Dzogchen Longchen Rabjam

2012年1月3日火曜日

シャンティマントラの意味


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2012年1月1日日曜日

2011年インド修行旅行記 ハリドワールからデリーに戻る Return from Haridwar to Delhi


沐浴の後、10:00ハリドワールを出発。
ここは今日の夜中着いたので、実際には10時間ほどの滞在だった。
また、デリーに向けてバスは走った。

チベッタンキャンプ

8月20日

デリーの宿泊先に戻る途中、チベット人たちの街で昼食をとることになった。
デリーの大通りから一歩路地に入ると、そこはチベット!

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